人はなぜ何度でも『逆襲のシャア』を観てしまうのか。
これはもう、我々ガンダム世代に課せられた業というか、ある種の定期健診みたいなものです。
若い頃は「ファンネルすげえ」「νガンダム伊達じゃねえ」と、単純にロボットアニメとして消費していた。でも、我々自身が社会に出て、組織の理不尽さを知り、部下を持ち、あるいは家庭を持ち、順調に「汚い大人」になってから観るこの映画は、まったく別のグロテスクな輝きを放ち始めるわけです。
まずネオ・ジオンという組織のガバナンスが凄まじい。
総帥であるシャア・アズナブルが、作戦参謀のナナイ・ミゲルと公然とよろしくやっている。あれ、今のコンプライアンス基準で言えば完全にアウトなんですが、実態としては「カリスマ創業者のメンタルケア」という、極めて切実な経営課題なのです。
シャアという男は、表向きは「地球環境の保全」「スペースノイドの自治」なんて立派なSDGs的スローガンを掲げていますが、その原動力は「ララァ・スンという母性を奪われた喪失感」と「アムロに勝ちたい」という、実に個人的で湿度の高い情念なわけです。
そんな「拗らせたおじさん」が核兵器を持って暴れまわるのを、ナナイ(24歳)という極めて有能な実務家が、愛人兼母親役として必死にコントロールしている。ネオ・ジオンとは、畢竟、シャアの巨大な「承認欲求」を満たすためのファンクラブであり、あのイチャつきは組織維持のための必要経費だったと解釈せざるを得ない。
一方で、対するロンド・ベルも大概です。
アムロとチェーンの職場内恋愛。あれも現場指揮官と担当エンジニアという、利益相反バリバリの関係ですが、ブライト艦長は黙認している。なぜか。彼らもまた、連邦政府という腐敗した巨大組織の中で、「現場のモチベーション維持」に四苦八苦している中間管理職です。
「アムロには安らぎが必要だ」というブライトの温情は、裏を返せば「そうでもさせておかないと、この激務とプレッシャーで最強の兵士が壊れてしまう」という、ギリギリの人事労務管理に見える。
そして、その大人たちの「エゴ」と「事情」の割を食うのが、ハサウェイやクェスといった若者たちです。クェスは「父性」を求めて彷徨い、ハサウェイは「初恋」に殉じようとした。しかし、シャアはクェスを道具にし、アムロは拒絶した。結果、ハサウェイは味方であるチェーンを殺害するという、取り返しのつかない十字架を背負わされる。あそこでハサウェイが「やっちゃいけなかったんだよ!」と叫びながらチェーンを撃つシーン、あれは単なる悲劇ではなく、我々大人が次世代に対して行っている「無責任の連鎖」そのものを見せつけられているようで、胃が痛くなるわけです。
結局、この映画が描いているのは、カッコいいモビルスーツ戦の皮を被った、「成熟しきれない大人たちの絶望的な足掻き」である。
シャアの「ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!」という最期の絶叫。あれを聞くたびに、我々は思うわけです。「ああ、俺たちの中にもシャアがいる」と。社会的な地位や建前で武装していても、心の奥底では誰かに甘えたい、認められたいと泣いている幼児性が、我々にも確実にある。
だからこそ、ラストの「アクシズ・ショック」で、敵も味方も関係なく隕石を押し返そうとするあの光景に、何度観ても涙してしまう。あれはサイコフレームの奇跡などではなく、どうしようもないエゴやしがらみに塗れた我々人間が、それでも最後には「より良くありたい」と願ってしまう、その祈りの可視化だからでしょう。
「νガンダムは伊達じゃない」。
この言葉を噛み締めながら、我々はまた明日から、重力に魂を縛られた日常という名の戦場へ戻っていくわけです。左様、人生はままならないものです。