おくる人、おくられる人、生と死、夫婦愛、家族愛、隣人愛、人間の業、職業に対する偏見等、かなり重々しくなりがちな人生における様々なテーマも、適度なユーモアを交えながらの軽快な語り口によって、誰が観ても分かりやすい作品に仕上がっていた。
この映画では滝田演出がどうのこうのと言うよりも、先ずはシナリオの良さを実感した。
原作者に映画化を拒否されたことにより、まったく異なったオリジナルの作品として脚本を構築し直す必要があった訳であり、その為かなり考え、練りに練ってシナリオ作りに力を注ぎ込んだと言う印象を受けた。原作をそのまま使えなかったことにより、却って映画的なイマジネーションに満ちた作品に仕上がったのではないだろうか?
そう言った意味では原作本に徹底的に惚れ込んだ主演の本木雅弘の功績が大きかったのだろう。演技的にも非常に抑えたものであり、かなり好感が持てた。妻役の広末涼子もまずまずだったが、ちょっと顔で演技し過ぎる傾向があり、その辺りが少々気にはなった。山崎務はいつも通り。余貴美子、笹野高史は自然体でとても素晴らしい。
そして忘れてはいけないのは、本木の父親役である故峰岸徹。映画の最後になって漸く登場するも遺体の役であり、当然ながら不動の状態。忘れ去られていた主人公の幼少の頃の記憶が甦り、夜の河原でのフラッシュバックで、父親の顔にピントが合った際の峰岸のセリフ無しの笑顔のクローズアップは特に印象的だった。映画公開中に本当に亡くなった訳であり、やがて訪れるであろう自らの死を意識し、映画の世界の中で自分自身を生前葬として葬っている訳で、ある意味壮絶であり、この映画により深い感動を与えることになった。
こういうことを過去に自らの手で行った俳優は「ラスト・シューティスト」の名優ジョン・ウェインくらいしか思い出せない。
東京で挫折して故郷の山形に戻り、大自然の中で偶然にも生きる道を、天職を見つけ出す主人公とその妻。四季の移り変わりの中に人間の生死のみではなく、 動植物たちの様々な生と死をも見つめた視点が冴え渡る。これを可能にした流麗なカメラワークと巧みな編集、そこにオーバーラップしていく久石譲の非常に抑揚を抑えながらも反復される美しいメロディが、この作品に気品と風格を与えている。
映画は昔から時代を映し出す鏡であると言われている。世界的な未曾有の大不況。生きる希望を失いつつある人々。こういったやりきれない時代にあってこそ、映画はその力を存分に発揮し、苦しい現実生活とは裏腹に、真に人々が求める理想的な社会や生き方を模索し、それらを観客に示し得るのだろう。1930~1940年代におけるハリウッド、第二次世界大戦後の日本映画界等・・・生きていくこと自体が厳しかったそんな時代背景であったからこそ、次々と生み出された過去の偉大な映画群。何かそれらと似たような傾向を最近感じている。良い映画がたくさん作り出されること自体はとても有り難いが、早くこの良くない時代が終わり、より良い時代になって欲しいと祈るばかりの今日この頃である。