山田洋次監督の『母と暮せば』(2015)は、戦争が奪った“普通の日々”の尊さを、静かな余韻とともに描き出す作品だ。井上ひさしが晩年に構想した広島・長崎・沖縄三部作の一端を担い、『父と暮せば』と呼応するように生まれた本作は、1948年の長崎を舞台に、原爆で息子を失った母・伸子と、死んだはずの息子・浩二、そして彼の恋人・町子が過ごすささやかな日常を描く。 その物語は、戦争の悲哀を声高に語るのではなく、生活の隙間に残された“気配”としてそっと浮かび上がらせる。
■二宮和也の身体が語る、葛藤と痛み
浩二を演じる二宮和也の存在は、本作の中心でひときわ強い輝きを放つ。
アイドルとしての明るさを纏いながら、その奥に影のような不安や未練、町子への想いの揺らぎを同時に宿すことができる稀有な俳優だ。
爽やかな表情のまま、ふとした瞬間に“この世の人ではない”という哀しみが滲む。その微細な変化が、観る者の胸に静かに触れてくる。
彼の演技には、言葉では届かない感情の震えがある。
私は彼の映画を観るたびに、嵐という大きな舞台を離れ、俳優としての道に専念してほしいとさえ思う。
本作でも、町子の幸せを願いながら素直になれない心の揺らぎを、繊細な身体表現で見事に体現している。
■“残された者”の視点が映す戦争のリアル
戦後80年という節目に、「戦争の記憶をどう継承するか」という問いが改めて重みを増している。
映画には、当時を生きた人々の“日常”を掬い上げる力がある。勇ましい戦士の物語ではなく、戦争に巻き込まれた市井の人々の生活こそが、戦争の真実を最も深く伝える。
映画冒頭、浩二は授業中の一瞬で命を奪われる。
インク瓶が溶けるほどの熱──その唐突で残酷な死は、母・伸子にとっても現実とは思えないほどの衝撃だった。
町子もまた、浩二を残して自分が幸せになることへの罪悪感に囚われる。“残された者”の悲しみは、時間の流れに逆らうように静かに続いていく。
山田監督は、原爆の暴力を直接描かない。親子の会話や沈黙の中に、ふとした仕草の中に、戦争の影がそっと差し込む。「命を落とした人ではなく、後に残された者の苦しみ」──その視点が、戦争のリアルをより深く、痛切に浮かび上がらせる。
■人と人が寄り添う温度
本作には、戦時下でも失われなかった人情や、互いを思いやる心が静かに流れている。加藤健一演じる“おじさん”の、節子をただ見守る優しさ。
黒木華の沈黙の奥に宿る、揺るぎない芯の強さ。
そして吉永小百合の、母としての圧倒的な存在感──美しさを保ちながらも、生活の匂いをまとった“母”としてそこに立つ。
戦後の日本には、今よりもずっと“助け合うことが当たり前だった時代の空気”があった。その温度が、作品全体を包み込むように漂っている。
■「生きていた証」と向き合うということ
私は以前、原爆資料館で被爆した学童の制服や履物を目にした。
何の罪もない子どもたちが、ただ日常を生きていただけなのに、その日常が一瞬で断ち切られた。
展示物を“資料”ではなく“一人ひとりの人生の断片”として見つめたとき、その命の短さが胸に迫り、言葉を失った。その痛みこそが、私が平和を願う心の根にある。
『母と暮せば』は、まさにその“断片”を丁寧に拾い上げ、戦争が奪った日々の尊さを静かに伝える作品だ。戦後80年という節目に、この映画が投げかける問いは、決して過去のものではない。
私たちは、今を生きる者として、その記憶をどう受け継ぐのか──その答えを探し続けていくのだろう。