太陽の坐る場所
――動けなくなったままの「本心」について
2014年制作。山梨放送開局60周年記念作品として作られた本作は、同名ミステリー小説を原作としている。だがこの映画が扱っているのは、謎解きとしての事件ではない。むしろ、言葉にできないまま心の奥に沈殿した「過去」を、ミステリーという形式でそっと置いた作品だ。
邦画がようやく手探りの時代を抜け出し、“説明しすぎないこと”を信じ始めた頃の空気が、この作品にはある。余白に漂うのは、恐怖ではなく、罪悪感と後悔だ。
主人公・高間響子だけが闇を抱えているわけではない。積極的に同窓会の幹事を引き受け続ける島津、軽やかに振る舞う吉田、気まぐれな関係を生きるユキ。誰もが、それぞれの場所で「言えなかった本心」を抱えている。
これは群像劇だ。だがその群像の正体は、「私たち自身」だ。
若さと危うさが同居する高校時代。当時の自分を思い出すとき、人はしばしば懐かしさと同時に、拭えない罪悪感を覚える。この作品は、その感情を“ミステリー”として提示する。だから観る側は、犯人ではなく、「自分の中に残っている謎」に向き合うことになる。
響子は、確かに清瀬のことを好きだった。だが彼から突き放される。「君は意地になっているだけだ」
この言葉が、彼女の時間を止めた。フラれたという事実以上に、自分の本心が否定されたこと。それが、女王の座からの陥落を意味していた。
彼女はそれを受け入れた。だが、自分が何を本当に望んでいたのかは、その後もずっと分からないままだった。
クラスの女王。その立場を失うことへの恐れ。だからこそ響子は、「どうすれば転落するのか」というアンテナだけを張り続けていた。
女子をまとめることはできた。だが、男子の心までは操れなかった。そして、恋をした。
誰もが経験する、ごく普通の高校生活。だが響子は、その「普通」を許せなかった。だから抗わず、足掻かず、なるがままに卒業した。
残ったのは、清瀬の言った「意地」という言葉と、自分の本心がどこにあったのかという問いだけだった。
響子は、鈴ちゃんと呼んでいた今日子から、名前を奪っていた。それは無意識の支配だったのかもしれない。
その名前が返されたとき、今日子は自由になった。
体育倉庫、花瓶、告白。どれも些細な出来事だ。だが、そうした小さな積み重ねが、人の心の奥に深く刻まれる。
「自分の本心を言うことで、誰かに妬まれる世界にはいたくない」その感覚を持っていた今日子は、名前を取り戻し、自由になって、やがて女優になった。
最大のミステリーは、なぜ今日子が、響子の本心を知っていたのかという点だ。
だが、高校生の本心など、本当は隠し通せるものではない。いつも一緒にいた二人の“きょうこ”だからこそ、見えていたのだ。
そして今日子は知っていた。響子が、今でもあの場所から動けていないことを。
体育倉庫に閉じこもったあの日から、「太陽は私じゃない」「陽の当たる場所にいてはいけない」そう言い聞かせてきた響子。
27個のトンネル。抜けられないままの人生。
同窓会という偶然が重なり、今日子は腹を決める。「会いたい人もいないし、会いたくない人もいない。でも、会って話したい人はいる」
彼女にとって響子は過去だ。だが、止まってしまった人に、「動けない理由」を伝えられるのは、おそらく自分だけだと知っていた。
体育倉庫での再会。そしてかけられる言葉。「陽の当たる場所に出たければ、出てもいい」
答えは示されない。その先は、余白に置かれる。
この物語は、響子が主人公でありながら、誰一人、単純なキャラクターはいない。島津の「いい人」という仮面、ユキの気まぐれ、ミチコの沈黙、吉田の凡庸さ。
問題を抱え、葛藤し、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。それでももう一度、その場所に立とうとした響子の物語だ。
山梨放送開局60周年という節目に作られた本作は、派手さはないが、静かに心を掴んで離さない。
太陽は、坐っているだけだ。そこに立つかどうかは、自分で決めていい。