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『いつか読書する日』
佐世保の坂道に捨てられた、
ク○男の自己満足という名の「嘘」
この映画を観て感じる「静謐な感動」の正体は、精巧に作られた「偽物の美学」である。
1. 佐世保と言う土地への敬意を欠いた「音」のデタラメ
舞台は佐世保。しかし、聞こえてくるのは
「京王バイパス」や「甲州街道」といった東京の交通情報。これを「孤独な女の遠距離受信」と好意的に解釈するのは、制作する者の「甘さ」を感じない訳にはいかない。
現実にその土地で汗を流し、坂道を登り降りする生活者にとって、ラジオから流れるニュースは命綱であり日常だ。そこへ平気で東京の音源を貼り付ける無神経さは、この映画が、佐世保という場所を、単なる「小綺麗なポストカード」としてしか見ていない証拠である。
2. 「漂白」された、嘘の長崎弁
主演の田中裕子や岸部一徳に、地元の言葉(長崎弁)を喋らせないという選択。これもまた「普遍的な孤独」という耳障りのいい言葉で飾ったリアリティの放棄だ。
生活の苦労も、親の心中というドロドロとした情念も、標準語で語られた瞬間に「どこか遠い国の他人事」に成り下がる。方言という泥臭さを排除し、清潔な標準語で「読書」をさせる姿は、50歳の女性を自分たちの好みの型にはめた「おじさんたちの幻想」でしかない。
3. ステレオタイプを消費する、安っぽい悲劇
「ネグレクトに走るパチンコ狂の母」という、使い古された悪意あるステレオタイプを舞台装置に使い、最後は「子供を助けて川で溺れる」という、昭和のメロドラマですら避けるようなベタな事故で幕を引く。
30年の沈黙という重い設定を、たった一瞬の水難事故という「飛び道具」で解決(粉砕)してしまう手法は、物語の敗北である。結局、男を聖人君子として死なせ、女を永遠の孤独に閉じ込めることで、「悲劇に酔いしれる自分たち」のメンツを守っただけなのだ。
4. 結論
本作は「いつか読書する日」という美しいタイトルとは裏腹に、細部の嘘を「雰囲気」で塗りつぶした、極めて不誠実な作品と言わざるを得ない。
50歳の女性の現実を、そして長崎という土地の記憶を、自らの美学を完成させるための「小道具」に貶めた。そこに映っているのは、孤独の真髄ではなく、グロテスクな男目線でこねくり回した「綺麗な嘘の死体」である。
・つまり、なんで佐世保なんだよ!って事。
・老眼であんな細かい字読めねぇだろ。
・彼はやはりメロンの方が似合う。ミスキャスト
・死に行く人間の大きなお世話。
・50歳の女性の生理なんて全くの無視
・残された者が長い人生であるとは限らん
・正にご都合主義
・僕は多分牛乳アレルギー 精神で牛乳は飲めん
・日本の役者さんはラブシーン下手。ミスキャスト