2006年に公開。もう20年前の映画だ。本作のこともペドロ・コスタのことも全く知らないまま、今頃になって知ったことは残念だ。もっと早く出会いたかった。でもある程度の経験と学習、社会人体験を経たからこそ、本作を受け止められるようになったのかもしれない。とにかく僕にとっては大事な一本となった。
当時カンヌ国際映画祭の上映では、途中退席者が続出し、評論家からは「こんなの映画じゃない」というような批判が出たそうだ。
確かにわかる。普通の映画の定義からは外れている。カメラは動かない、物語は展開しない、登場人物は無表情、同じようなセリフの繰り返し…眠たくなる要素満載である。
しかも、コスタは本作を3人のスタッフで撮影した。カメラマンと音響技師とコスタの3人である。出演者は全員素人。プロの役者はいない。
カメラは35mmではなく手持ちのデジタルカメラ1本。2002年の「スターウォーズ・エピソード2」が全編デジタルカメラ撮影の最初と言われているが、そこで使われたような大型の高品位のカメラではなく小型カメラだそうだ。
ここまでの要素だけ並べると、チープな映画のようだが、とんでもなかった。映像はゴージャスでドラマチックだ。バロックの画家カラヴァッジオを連想した。検索すると「フェルメールやレンブラントのようだ」と評されている。照明のない室内や夜の路地など、暗い場所での撮影が多く、そこに差し込む光が劇的で、神話の世界を撮影したようだ。
鉱山労働者の写真で有名な〝神の目を持つ写真家〟サルガドの作品のようでもある。本作も、サルガドの写真と同じく、一つ一つのショットが、地球上のある時代のある場所を記録した〝聖なる1枚〟だ。
しかも、カラヴァッジオやサルガドのような美しい絵に、時間経過が記録され、動くのである。
本作の舞台は、ポルトガルのスラム街と移転先となった集合住宅。登場人物は、貧困移民者たち。かつて現実に存在した、その撮影の舞台は、神話の世界のようであり、人物たちも、神話に登場する神々のように感じさせる。
わかりにくくて人には、おすすめしにくい映画だけれど「写真展を観にいく感覚で観てきてね」と言えばいいかもしれない。
物語は展開しない…と書いたけれど、ドラマがないかと言えばそんなことはない。映像と同様に、これも神話のような感じだ。うまく説明できないが、人類の普遍的な何かに触れている感覚がする。
似た感触の物語を探すなら、「百年の孤独」とかだろうか。あるいは、随分前に読んだので内容もうろ覚えなのだけれど、全米図書賞で話題になった柳美里の小説「JR上野駅公園口」を僕は思い出した。
説明の少ない映画、そして、人それぞれに受け止めて良い映画だと思うので、自分なりの解釈含めて、どんな映画だと感じたかを書き留めておきたい。
オープニングの映像から、目を見張った。
夜のスラム街を移した写真のようだ。廃墟のように壊れかけた家、暗く光る壁の色、トタンのような材質の鈍い反射光…写真展なら、この写真1枚で満足するくらいの見事なショット。静止画かと思ったら、その廃墟のような建物の2階の窓から、大きな鍵や荷物が次々捨てられる。
次に、それを捨てた女性をカメラが捉える。迫力のポートレートだ。手にナイフを持って、怒りのこもった眼差しで上を見上げている。その視線の先にいる人物に、恨みの言葉を投げかける。
その言葉が、次第に、自分の人生を物語るものに変わっていく。
何か太古の時代に、焚き火を囲んだ村人を前に、長老が村の創世記に体験したことを語っているかのような感じでもある。
映画を観ていくうちに、この女性が本作の主人公の初老の男ヴェントゥーラの妻であることがわかる。彼女は、過去に、家具を捨て、ナイフで彼を切りつけ、恨みの言葉を投げかけて家を出ていった。その場面の記憶なのだ。そして、ヴェントゥーラはスラム街の朽ち果てかけた家に一人残された。
そして、さらに見ていくとわかってくるのは、ヴェントゥーラはもうこのスラム街に住んでいないのかもしれないということだ。スラム街は取り壊しの最中で、そこに住んでいた住人は、政府が用意した新しい集合住宅へ移り住むことになった。
ただし、全員が固まって一緒にではなく、それぞれバラバラにである。家族のような地域共同体でもあったスラム街の住人たちは都市に放り出され、孤独になった。ヴェントゥーラは彼らを訪問することを日課にしているようである。
前作「ヴァンダの家」を先に観ていたから、その訪問先の相手としてヴァンダが登場したのには驚いた。前作から5年ほどだが、少女の面影は完全に消え去っていた。子供が産まれ、夫となった相手とはすでに別れており、一緒に暮らしていた母親と妹は亡くなった。
ヴァンダはヘロイン中毒を克服したが、前作でもずっと続いていた咳は止まらない。本人は、長生きできないであろうことを予感している(ヴァンダはこの映画の後どうなったのだろうか)。
ヴェントゥーラが訪問するのは、ヴァンダだけではない。他にも何人かいる。ヴァンダはヴェントゥーラを「パパ」と呼んでいるから、自分の子供たちを訪問しているということかなと思ったが、そうではなさそうだ。スラム共同体で、可愛がっていた近所の子供たちということだと思う。
パパと呼ぶのは、彼を慕うヴァンダの気持ちとヴェントゥーラへのサービス精神のようなものからではないだろうか。あるいは、舞台となったスラム街で近所の人たちからパパと呼ばれていたのかもしれない。
この映画は時間と空間、事実と想像が混濁している。ヴェントゥーラがボケていたり精神を病んでいるということではないと思う。様々な過去と現在、空想と現実、それらが脳内で横並びとなって、様々に繋がっているということだと僕は理解した(しかし、本作の8年後の「ホース・マネー」では再びヴェントゥーラが主演し、精神病棟らしき施設の住人を演じている。この辺りはどう考えたらいいのかわからない)。
とにかく、人間の脳内の主観的現実とは、本作のように混濁した世界でもある。無意識下から浮かび上がってくる様々なイメージや、これまでの朧げな過去の記憶が、無秩序にごちゃ混ぜに入って、複雑につながり合っている。それが夢として表現される、人間の自己の全て、意識と無意識の世界でもある。
現実生活では、左脳や自我の理性や合理性で持って整理して、社会生活に適応している。そうすることで生活を理性的に成り立たせることができる。
しかし、右脳的な世界では、時間や空間を超えた巨大な広がりがあって、そこに降りていくことは、真の自分に覚醒することだけれど、現実から乖離する危険なことになったりもする。
フロイトやユング、その後の様々な脳科学者たちが探究する意識と無意識の世界はかなりスピリチュアルでマジックリアリズム的な世界だ。ペドロ・コスタはそうした人間の認知の世界を描いているのではないかと思う。
ベントゥーラは、繰り返し、妻への手紙を口にする。
「俺の手紙はついたか? お前の返事はまだ来ないがそのうち届くだろう」
「10万箱のタバコと、1ダースのドレスと車、溶岩の小さな家とささやかな花束を君に贈るよ」
でも、この手紙は実際には書いてもいないし、出していないのだろう。妻は彼をナイフで切りつけ、家具を捨てて出ていったのである。この妻は、空想の世界、ヴェントゥーラの主観的現実の中に存在する妻なのだと思う。
ヴァンダは現実だと思うが、その他の〝子どもたち〟は、現実にはいない人、記憶の中の人物が混じっていて、映画で映されるヴェントゥーラの行動にも、現実と空想と、過去と現在とが混濁しているのだと思う。そしてこうした認知が、人の脳内での、もう一つのリアルな主観的現実の世界なのだ。
こうした世界認識を持つことは、ユングのいうところの個性化というような、特に中年期以降の成長や発達には欠かせないことだ。しかし、同時に自分自身をうまく律して、現実の社会に適応するくのに十分な自己を確立しないまま、こうした無意識の世界に迷い込むことには、社会との関わりを見失うような危険も伴う。
本作は、共同体や家族を失った貧困者の痛みを読み取るのが正しい見方なのかもしれないけれど、それだけではないと思う。
本作は、立派な社会人として生きる人には、何か本作は怒りを伴うような、否定的な感情を引き起こすかもしれないし、あるいは意味不明で眠たくなるということになる可能性が高い作品だと思う。
しかし、人生の後半戦から終盤に向かう人にとって、新しい世界の扉を開いてくれる新たな認識への示唆をくれるものだとも感じる。
村上春樹作品で描かれる井戸、あるいは地下二階に沈み込んで、壁を抜けて異世界へいくような、そんな体験をさせてくれるのが後期ペドロ・コスタであり、その代表作の1つが本作ではないかと思うのだ。