ある新聞社の経営者交替による社方針の転換に伴い大幅なリストラの巻き添えを喰った女性記者アン(バーバラ・スタンウィック)は、その腹いせに架空の自殺志願者であるジョン・ドゥーという名の失業者をでっち上げ
、彼の投書という名目で、自分が担当する最後のコラムにその記事を載せた。
かつてこの新聞社でも一時働いた経験のあるこの男は、そんな社会に抗議する為に、クリスマスの夜に市庁舎の屋上から投身自殺をするというのだ。
この記事が発表されるや否や、知事を始めとした地方政界の人間たちは動揺し、当の新聞者の局長コネル(ジェームズ・グリースン)も多いに慌てふためいて、ことの次第をアンに詰め寄った。
気転を利かした彼女は、自分が特別ボーナス付きで再雇用されるということを条件に名案を繰り出した。折りから我こそがジョン・ドゥーであると言って新聞社に続々と集まって来た失業者の中から、一人を選び出してジョン・ドゥーに仕立て上げ、アンの書いた論説を連載記事にすれば、たちまち売上げは伸び、新聞社は立ち直るというのだ。
こうして数多くの失業者の中からジョン・ドゥーに選ばれたのは、肩を壊した失業中の元マイナー・リーグの投手ジョン・ウィロビー(ゲーリー・クーパー)である。彼には"大佐''というニックネームで呼ばれているシニカルな風来坊(ウォルター・ブレナン)が付いている。ウィロビーは肩の治療を受けられるという約束で、ジョン・ドゥー役を引き受ける。
連載記事は予想通りの大当たりとなり、売行きは激増し、 社主である政界の黒幕ノートン(エドワード・アーノルド)までがこれを支援するようになる。
今やジョン・ドゥーとなったウィロビーは、国民の人気の的となり、ついにはラジオ放送にまで引っ張り出され、自ら演説までさせられる羽目になる。最初は嫌々ながらアンの書いた原稿を棒読みしていたジョンも、次第にその内容に感動していき、最後は自分の言葉でスピーチを締め括っていた。アンの母(スプリング・バイントン)の薦めで、亡き父が生前に日記に記していた政治色は薄いがとても分かりやすく、隣人をもっと愛せという内容だったからである。このスピーチに聴衆は大感激したが、罪の意識に苛まれ、いたたまれなくなったジョンは大佐と共にその場を逃げ出して田舎へと放浪の旅に出てしまう。
そしてある田舎町に滞在中に、彼がジョン・ドゥーであることを発見されてしまい、人々が集まって来て大騒ぎとなる。ジョンと大佐が知らぬ間に国中の都市には次々と"ジョン・ドゥー・クラブ"が発足していたのだ。ジョンの「隣人を愛して仲良く愉快に暮らせ」という例のスピーチの精神が、今や全米の田舎町にまで普及し、続々とクラブが生まれているという事実を知る。そもそもは実にいかがわしい理由で引き受けた筈のこのジョン・ドゥー役が、今となっては人々にとって大変重要な意味を持っていることを悟り、その使命感に目覚め、彼を追って来たアンやコネルと共に、"ジョン・ドゥー・クラブ"の更なる普及の為に力を注ぐ決心をする。
ノートンも全米の各州、各都市に"ジョン・ドゥー・クラブ"を発足させ、拡大させることに邁進していく。だがその裏側には、次期大統領選挙の為の強力な地盤固めを睨んだ腹黒い目論見があったのだ。ジョンを上手に操り、全米のジョン・ドゥー・クラブ票さえ確保すれば、次期大統領の座は間違いなかったからである。
政治の為に利用されていることに全く気付かないジョンの姿を見ていられなくなったコネルは、バーで酒をあおりながら、ついに全てを彼にぶちまける。
こうして新聞社やマスコミ迄もを自由に牛耳る政界の黒幕ノートンと彼の派閥を相手にしたジョンの孤独な闘いの火蓋が斬って落とされ、映画は一気にクライマックスへと突き進んで行く。
ユーモラスでスクリューボール・コメディを彷彿とさせる作品の冒頭および前半部分とは異なり、後半部分は、よりシリアス且つ社会派としてのキャプラの面目を前面に打ち出した渾身の出来になっている。
特にクライマックスの降りしきる雨中での全国大会のシーンでは、偶像崇拝的に国民の英雄に祭上げられたこの罪なき偽善者の真の姿が一瞬にして暴露され、それと同時に群衆が怒涛の如き、暴動を惹き起こすといった群衆心理の恐怖が克明に描かれている。そしてマスコミを利用し、これら全てを計算付くで処理していく、このファシストの如き次期大統領候補の男の怖さが同時に映し出されていく。
この映画には明らかに同系列の作品である同じくゲーリー・クーパー主演の「オペラ・ハット('36)」や、ジェームズ・スチュワート主演の「スミス都へ行く('39)」の中で、大らかに描かれていた一種のアメリカン・ドリームといったような余裕が見られない。事態はもっと切羽詰っていて切実であり、主人公を取り巻く状況は絶望感に満ちている。そういう意味では、映画「群衆」はこれら一連の共通テーマを扱った作品群における巨匠フランク・キャプラが到達し得た最終形状であり、最高峰の作品であると言える。ラストシーンに近づく程に作品は重く深くなり、観る者に多くの教訓をもたらしていく。フィルム・ノワールを観ているのではと錯覚する程に重苦しいそのリアリズム故に、どうしても我々は「オペラ・ハット」や「スミス都へ行く」の方に目を移し、そちらを好みがちになるが、第二次世界大戦勃発前夜という状況にあって、キャプラとしてもそう描かざるを得ないそんな恐怖時代が、まさに目の前に到来しつつあったのであろうことが推測される。
ラスト・シーン、雪の降りしきるクリスマスの夜の屋上・・・
全てに絶望して、精根尽き果てた主人公が、全ての人々に訴えかけようとして取ろうとした最後の行動。
これを必死に変えさせ、彼の心を動かしたのは、本当に彼を愛する身近な人々、アン、大佐、そして嘗ての彼のスピーチを心の底から受け止めていたほんの一握りの"ジョン・ドゥー・クラブ"の人たちだった。
1941年製作の名作「群衆」に描かれている世界が、何故か不思議なくらい現在(2008年)の日本の状況に当て嵌まるように思えてならない。それはあらゆる意味で、それとは気付かぬうちにのっぴきならないかなり危険な国へと、今の日本が移行しているということの証ではないのか?
名匠フランク・キャプラ監督による魂のメッセージは、製作後67年が経った今も尚、映画を観る者に力強い説得力も持ってリアルに訴え掛け続けてくれているのである。