群衆

劇場公開日:1951年6月15日

解説・あらすじ

「或る夜の出来事」のフランク・キャプラ監督、ロバート・リスキン脚本の名コンビが贈る社会風刺ドラマ。解雇されそうになった女性記者アンは、ジョン・ドーという人物が社会抗議のために自殺しようとしているという内容の記事をでっちあげる。大反響を呼んだその記事を利用して発行部数を伸ばすため、オーディションで選ばれた元野球選手の男がドーを演じることに。一躍時の人となった彼は、民衆の偶像として祭り上げられるが……。

1941年製作/アメリカ
原題または英題:Meet John Doe
劇場公開日:1951年6月15日

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映画レビュー

4.0 群衆

2026年1月24日
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鑑賞方法:DVD/BD

ある新聞社の経営者交替による社方針の転換に伴い大幅なリストラの巻き添えを喰った女性記者アン(バーバラ・スタンウィック)は、その腹いせに架空の自殺志願者であるジョン・ドゥーという名の失業者をでっち上げ
、彼の投書という名目で、自分が担当する最後のコラムにその記事を載せた。
かつてこの新聞社でも一時働いた経験のあるこの男は、そんな社会に抗議する為に、クリスマスの夜に市庁舎の屋上から投身自殺をするというのだ。
この記事が発表されるや否や、知事を始めとした地方政界の人間たちは動揺し、当の新聞者の局長コネル(ジェームズ・グリースン)も多いに慌てふためいて、ことの次第をアンに詰め寄った。
気転を利かした彼女は、自分が特別ボーナス付きで再雇用されるということを条件に名案を繰り出した。折りから我こそがジョン・ドゥーであると言って新聞社に続々と集まって来た失業者の中から、一人を選び出してジョン・ドゥーに仕立て上げ、アンの書いた論説を連載記事にすれば、たちまち売上げは伸び、新聞社は立ち直るというのだ。
こうして数多くの失業者の中からジョン・ドゥーに選ばれたのは、肩を壊した失業中の元マイナー・リーグの投手ジョン・ウィロビー(ゲーリー・クーパー)である。彼には"大佐''というニックネームで呼ばれているシニカルな風来坊(ウォルター・ブレナン)が付いている。ウィロビーは肩の治療を受けられるという約束で、ジョン・ドゥー役を引き受ける。
連載記事は予想通りの大当たりとなり、売行きは激増し、 社主である政界の黒幕ノートン(エドワード・アーノルド)までがこれを支援するようになる。
今やジョン・ドゥーとなったウィロビーは、国民の人気の的となり、ついにはラジオ放送にまで引っ張り出され、自ら演説までさせられる羽目になる。最初は嫌々ながらアンの書いた原稿を棒読みしていたジョンも、次第にその内容に感動していき、最後は自分の言葉でスピーチを締め括っていた。アンの母(スプリング・バイントン)の薦めで、亡き父が生前に日記に記していた政治色は薄いがとても分かりやすく、隣人をもっと愛せという内容だったからである。このスピーチに聴衆は大感激したが、罪の意識に苛まれ、いたたまれなくなったジョンは大佐と共にその場を逃げ出して田舎へと放浪の旅に出てしまう。
そしてある田舎町に滞在中に、彼がジョン・ドゥーであることを発見されてしまい、人々が集まって来て大騒ぎとなる。ジョンと大佐が知らぬ間に国中の都市には次々と"ジョン・ドゥー・クラブ"が発足していたのだ。ジョンの「隣人を愛して仲良く愉快に暮らせ」という例のスピーチの精神が、今や全米の田舎町にまで普及し、続々とクラブが生まれているという事実を知る。そもそもは実にいかがわしい理由で引き受けた筈のこのジョン・ドゥー役が、今となっては人々にとって大変重要な意味を持っていることを悟り、その使命感に目覚め、彼を追って来たアンやコネルと共に、"ジョン・ドゥー・クラブ"の更なる普及の為に力を注ぐ決心をする。
ノートンも全米の各州、各都市に"ジョン・ドゥー・クラブ"を発足させ、拡大させることに邁進していく。だがその裏側には、次期大統領選挙の為の強力な地盤固めを睨んだ腹黒い目論見があったのだ。ジョンを上手に操り、全米のジョン・ドゥー・クラブ票さえ確保すれば、次期大統領の座は間違いなかったからである。
政治の為に利用されていることに全く気付かないジョンの姿を見ていられなくなったコネルは、バーで酒をあおりながら、ついに全てを彼にぶちまける。
こうして新聞社やマスコミ迄もを自由に牛耳る政界の黒幕ノートンと彼の派閥を相手にしたジョンの孤独な闘いの火蓋が斬って落とされ、映画は一気にクライマックスへと突き進んで行く。
ユーモラスでスクリューボール・コメディを彷彿とさせる作品の冒頭および前半部分とは異なり、後半部分は、よりシリアス且つ社会派としてのキャプラの面目を前面に打ち出した渾身の出来になっている。
特にクライマックスの降りしきる雨中での全国大会のシーンでは、偶像崇拝的に国民の英雄に祭上げられたこの罪なき偽善者の真の姿が一瞬にして暴露され、それと同時に群衆が怒涛の如き、暴動を惹き起こすといった群衆心理の恐怖が克明に描かれている。そしてマスコミを利用し、これら全てを計算付くで処理していく、このファシストの如き次期大統領候補の男の怖さが同時に映し出されていく。
この映画には明らかに同系列の作品である同じくゲーリー・クーパー主演の「オペラ・ハット('36)」や、ジェームズ・スチュワート主演の「スミス都へ行く('39)」の中で、大らかに描かれていた一種のアメリカン・ドリームといったような余裕が見られない。事態はもっと切羽詰っていて切実であり、主人公を取り巻く状況は絶望感に満ちている。そういう意味では、映画「群衆」はこれら一連の共通テーマを扱った作品群における巨匠フランク・キャプラが到達し得た最終形状であり、最高峰の作品であると言える。ラストシーンに近づく程に作品は重く深くなり、観る者に多くの教訓をもたらしていく。フィルム・ノワールを観ているのではと錯覚する程に重苦しいそのリアリズム故に、どうしても我々は「オペラ・ハット」や「スミス都へ行く」の方に目を移し、そちらを好みがちになるが、第二次世界大戦勃発前夜という状況にあって、キャプラとしてもそう描かざるを得ないそんな恐怖時代が、まさに目の前に到来しつつあったのであろうことが推測される。
ラスト・シーン、雪の降りしきるクリスマスの夜の屋上・・・
全てに絶望して、精根尽き果てた主人公が、全ての人々に訴えかけようとして取ろうとした最後の行動。
これを必死に変えさせ、彼の心を動かしたのは、本当に彼を愛する身近な人々、アン、大佐、そして嘗ての彼のスピーチを心の底から受け止めていたほんの一握りの"ジョン・ドゥー・クラブ"の人たちだった。
1941年製作の名作「群衆」に描かれている世界が、何故か不思議なくらい現在(2008年)の日本の状況に当て嵌まるように思えてならない。それはあらゆる意味で、それとは気付かぬうちにのっぴきならないかなり危険な国へと、今の日本が移行しているということの証ではないのか?
名匠フランク・キャプラ監督による魂のメッセージは、製作後67年が経った今も尚、映画を観る者に力強い説得力も持ってリアルに訴え掛け続けてくれているのである。

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ナオイリ

5.0 祭り上げられ型ヒューマン・ドラマ‼️

2025年11月11日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル、DVD/BD

泣ける

興奮

幸せ

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活動写真愛好家

3.5 69点

2025年8月29日
PCから投稿
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ま

4.0 【”孤独なる民衆は”感動的なスピーチ”により群衆となる。”一人の男が容易に英雄となる現代アメリカを見越したかの如き社会派作品。だがフランク・キャプラ監督は人間の善性を信じるラストを用意するのである。】

2025年8月24日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

怖い

知的

幸せ

■経営者交代を受けて会社をクビになった新聞記者、アン(バーバラ・スタンウィック)は、怒りに駆られジョン・ドウという架空の人間を創り上げ、クリスマスイヴの夜に市庁舎から飛び降りるという記事を執筆し、発行部数を伸ばすという約束で復職を果たす。
 そして、ジョン・ドウ役を募り、元地方野球選手のウィロビー(ゲイリー・クーパー)が抜擢され、政界進出を企むD.Bノートン(エドワード・アーノルド)はアンにジョン・ドウ役のウィロビーのスピーチ原稿を依頼する。
 ライバル社の脅しを受けるウィロビーだが、アンの原稿を震える手でラジオで読み上げ、”隣人を大切にしよう”というメッセージが受け、民衆のヒーローとなる。
 だが、ウィロビーに笑顔はなく、彼の連れの”大佐”(ウォルター・ブレナン)は、ドンドン不機嫌になって行くのである。

◆感想

・今作を観ると、直ぐに想起するのはナチスドイツのヒトラーの狂的な扇動演説に熱狂するアーリア人であるドイツ人の白黒映像であり、現代で言えばトランプを熱狂的に支持する一部の共和党員の姿である。
 今作との違いは、ウィロビーが群衆の支持を集める事に悩む姿とは正反対に、民衆の熱狂する姿を満足気に見下ろすヒトラーとトランプの姿である。

■それにしても、アメリカ人の一部(特にプアホワイト層が多いと感じる。)は何故にトランプの様な浅薄で息を吐くように嘘を平気で突く男を熱狂的に支持するのであろうか。
 日本とは桁違いの数の、大統領選挙戦の際に赤い帽子を被り満足気に彼らを見下ろすトランプを見上げながら支持する姿。
 更には、自身に有利と見ればトランプ支持を打ち出し、チャッカリ要職につきコストカット政策を推し進め、政策が自身の事業に合わないと見るや、さっさと離れるイーロン・マスクの愚かしき姿には呆れかえる。
 トランプを買う点は、その行動力とタフな精神力だが、今のところパフォーマンス程度で(彼はパフォーマーとしては一流である。)大した成果はない。

・アメリカでは、選挙の際、もしくは大統領のスピーチ原稿はスピーチライターが作るが、ジョン・F・ケネディの頃は自分で筆を入れる事が多かったそうだが、今ではどうなのであろう。
 どちらにしても、今作のアンは近現代の政治家のスピーチライターの走りであろう。それもこの作品を観ると、皮肉に思えてしまうのである。

・今作の印象的な人物としては、ウィロビーの連れのウォルター・ブレナン演じる”大佐”であろう。彼のみが”自分の言葉ではないスピーチを読みヒーローになった”ウィロビーと民衆に対し、絶望する人物として描かれているのである。
 だが、彼は一時ウィロビーを見捨てるが、彼が民衆に”詐欺師”と呼ばれ、突き上げられた時に助けに来るのである。
 彼こそが、自由民主主義の恐ろしさを知りつつ、それでも人間性を保つ人物として描かれるのである。

■D.Bノートンの企みにより、ウィロビーが付いていた虚偽が群衆から突き上げられ、”市舎から飛び降りろ!”と迫られた時に、アンは涙を流し絶望する彼を説得し、その言葉を聞いた”群衆”は”民衆”になり、彼を再び支持するのである。
 この描き方に、フランク・キャプラ監督の人間の善性を信じる基本姿勢が見て取れるのである。

<今作は、一人の男が容易に英雄となる現代アメリカを見越したかの如き社会派作品でありながら、フランク・キャプラ監督は人間の善性を信じるラストを用意した作品なのである。>

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NOBU