羊飼いと風船

   102分 | 2019年 | G

世界が絶賛したチベット映画の先駆者ペマ・ツェテン監督作品

神秘の地チベットに近代化の波が押し寄せ、長年にわたり受け継がれてきた営みが揺らぎ出す。

チベット映画の先駆者ペマ・ツェテン監督が、大草原に生きる羊飼い家族の日常と葛藤を描いた作品。チベットの大草原で牧畜を営む祖父・若夫婦・子どもたちの3世代家族。昔ながらの素朴で穏やかな暮らしを送る彼らだったが、受け継がれてきた伝統や価値観は近代化によって変化しつつあった。そんなある日、子どもたちのいたずらをきっかけに、家族の間にさざなみが起こり始める。ペマ・ツェテン監督の前作「轢き殺された羊」で主演を務めたジンパが父親を演じる。2019年・第20回東京フィルメックスのコンペティション部門で「気球」のタイトルで上映され、最優秀作品賞を受賞。

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監督: ペマ・ツェテン
脚本: ペマ・ツェテン
撮影: リュー・ソンイエ
出演: ソナム・ワンモジンパヤンシクツォ
英題:気球 Balloon
中国 / 中国語、チベット語
(C)2019 Factory Gate Films. All Rights Reserved.

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映画レビュー

村山章

PRO

リアリズムとマジックリアリズムが邂逅する

村山章さん | 2021年2月28日 | PCから投稿

『タルロ』では、近代化の波に翻弄されるチベットの姿を、朴訥した世間ズレしない男の悲喜劇として描いていたペマ・ツェテンが、今度はひとつの家族の肖像から似たテーマを描いているのだと思い込んでいいた。が、実際に観てみると、予想を遥かにこえてフェミニズム的な現代性のある、普遍的な社会と女性についての物語だった。

普遍的と言っても、この映画の時代設定である1990年代のチベット女性たちの現実と、他の地域や国々、別の時代の女性たちの境遇が同じであると言うつもりではない。ただ、まったく違う文化圏の物語を俯瞰で眺めようとしても、否応なしにわれわれを取り巻く現実のことも考えずにはいれないくらい、ここで描かれる登場人物それぞれの気持ちのズレはリアルなものとして響いた。

そしてそれらのテーマをあくまでも映像に落とし込み、最後にファンタジーなビジュアルで理屈をねじ伏せる辺り、久しぶりにモフセン・マフマルバフの映画を観たような感覚を堪能した。

杉本穂高

PRO

伝統的価値観と現代的価値観の衝突

杉本穂高さん | 2021年1月31日 | PCから投稿

風船とコンドームは似ている、ということは多くの人が一度は思ったことがあるんじゃないだろうか。しかし、そんな思いつきからこんな崇高な作品が生まれるとは思ったこともなかった。本作にはチベットの人々の生命観と中国の支配に置かれた同国の苦難、近代的価値観と伝統の衝突が描かれている。
三人の子供がいる夫婦は性生活も盛んだ。子どもがコンドームを風船にして遊んで駄目にしてしまったせいで母親は妊娠する。貧しい羊飼いの家庭には4人目を養うお金もない上に、中国の政策上罰金も課せられる。しかし、チベットには死んだ家族が新しい命となって帰ってくるという伝統的考えがあり、新しい子供は祖父の生まれ変わりだと言う。伝統と政策、貧困の板挟みにされた母親は深く苦悩する。
女性の身体の権利の視点に立てば伝統を押し付け産ませることは良くないことだ。チベットという少数民族の弾圧という点からみると、堕ろすことは弾圧側の中国の政策に乗り、民族の伝統をないがしろにすることにもつながりかねない。あまりにも深い葛藤が本作にはある。

牛津厚信

PRO

そこに風船が浮かぶという映像的な喜び

牛津厚信さん | 2021年1月29日 | PCから投稿

映画史を紐解くまでもなく、「赤い風船」('56)以来、映画と風船はスクリーン上で親密な関係性を育んできた。本作における最大の魅力が、独特の風土、伝統文化、三世代に及ぶ家族の相貌にあることは確かだが、そこに風船というアイコンがふわりと浮かぶことで、いつしかチベットの草原は我々にとって、すっかり「見知らぬ場所」ではなくなっている。一方、各シーンに長回しが多用されるのは新鮮な驚きだった。それも長閑で気の遠くなる長回しというよりは、思いのほか緻密で奥行きのあるものばかり。子役や動物がいる中でよく撮れたものだと感心する。巧みに練られた物語というわけではないし、まとまりいい結末が待ち構えるわけでもない。むしろ、伝統と近代化の波間に迸る表情、行動、感情をナチュラルに点描する感覚に近い。ふわり上昇していく風船のごとく、この草原に暮らす一人一人を照らし、俯瞰する。そんな柔らかいタッチが余韻を残す作品だった。