オールド・オークのレビュー・感想・評価
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食と花、そして写真
冒頭、シャッター音と共に、寂れた田舎町の写真が次々に映し出される。そこに被る、口汚い会話。写真は、カメラマン志望のシリア人女性が撮ったものだ。内戦を逃れ、イギリスへ流れてきた人々の不安と、彼らに浴びせられる地元民の苛立ちがない混ぜとなり、冒頭から不穏な空気が満ちる。
町の唯一の溜まり場「オールド・オーク」を営むTJは、カメラを壊されたヤラを見過ごせず、ためらいながらも関わりを深めていく。二人を近づけるのは、かつての炭鉱町の賑わいを伝える、彼の兄の写真。物語を凝縮し、「その一瞬」を捉えているからこそ、写真は雄弁だ。彼女と写真を見返し、語り合ううちに、蓋をしていたTJの心に、変化が生まれる。
帰る場所のないシリアの人々の支援活動から、同じく行き場のない地元民たちの窮状も見えてくる。家に食べ物がろくにない子、寄付品に嫉妬する子。自分に余裕がなければ、他者に心をくだくことは到底できない。様々な積み重ねを経て、いよいよTJは一歩を踏み出す。食堂は賑わい、町に新しいうねりが生まれたかに見えたのだが…。
冒頭の深い溝、繰り返し描かれる地元民のと刺々しい言動から、2時間後にどんな結末に至るのか、ずっとハラハラしていた。ケン・ローチ監督の過去作を想えば、安易なハッピーエンドには至らないはず。図らずも苦い結末だとするならば、そこにどんな希望が示されるのか…。
終盤は、息もつかせぬ急展開。愛犬と日々歩いてきた海辺から、ふたたび海に向かおうとし彼に、思いもよらない事件が降りかかる。
食がエネルギーをもたらし、花は想いを育てる。花はすぐにしおれてしまうかもしれないが、贈られたときの喜びは色褪せない。花から種を取って蒔けば、想いはさらに広がっていく。町に根付いてきた聖堂の美しさに心打たれ、祖国で失われたものの重さに涙するヤラに、改めて争いが奪うものの大きさを感じた。彼らが織り上げた旗が、長く引き継がれ、いつまでも空高く掲げられることを願わずにいられない。
安易な解決を描かない、ケン・ローチ監督&ポール・ラバーティ脚本の誠実さ
本作を含むケン・ローチ監督の直近3本は「イギリス北東部3部作」と呼ばれているそうで、舞台となる地域だけでなく、苦しい暮らしを余儀なくされる人々への温かな眼差しと、そうした人々を生む国や社会の冷淡さに対する静かな怒りと抗議も共通する。ただし「オールド・オーク」に関しては、炭鉱業が廃れた斜陽の町に親の代から暮らしてきた住民らと、自治体の受け入れ政策により増えてきたシリア難民の間に生まれる摩擦や衝突という、“社会的弱者vs.社会的弱者”の対立になりかねないより複雑で難しい問題にアプローチする姿勢に、「麦の穂をゆらす風」や「天使の分け前」を含め長年組んできた脚本家ポール・ラバーティに製作のレベッカ・オブライエンを加えたケン・ローチ組の成熟を感じる。
相容れるのが難しそうな2つの集団の間で、古い樫の木のごとく深く根を張り立ち続けるのが、パブの店主TJ。TJは親しくなったシリア人女性ヤラを通じて難民たちの窮状を知り、店の一部を開放して地域の連帯につながるような食事会に協力するのだが、そのことが常連客らの反感を買ってしまう。
斜陽化する地方の問題と、移民・難民の受け入れに伴う摩擦や軋轢の問題という2つが絡んだ難題ゆえ、「オールド・オーク」は安易な解決を描かない。ささやかな希望のきざしを提示するにとどめるのが、ケン・ローチ組の誠実さなのだろう。
長きにわたるキャリアで紡ぎ続けた物語の到達点として
引退作と言われる本作でローチがこれほど重厚なドラマを編み上げているとは。思えば、初期代表作『ケス』は炭鉱町で行き場のない少年期を送る主人公の物語だったが、今回の舞台はまるで同様の炭鉱町の数十年後を見ているかのようだ。すでに産業が消滅し、街には何もない。職や食料に飢えた人がいる。そんな地に政府は難民を押し付ける・・・。すなわち、本作にはローチが見つめ続けてきた、労働、コミュニティ、紛争、難民、尊厳などのテーマが散りばめられているのだ。これらをすぐさま解決する明確な手立てはない。代わりに巨匠が提示するのは、84年のストライキの記憶とsolidality。加えて、皆が集う「場所」の重要性だ。この奇をてらうところのない、しかし一貫した揺るぎなさ、個への慈しみあふれる眼差しが胸にくる。長きにわたり彼が紡ぎ続けた物語の到達点として、誰もが耳を傾けるべき骨太で、力強い締めくくり方がそこには刻まれていた。
年ベス候補3本目
分断された世界を目の前に、タイトルの「古い樫の木」のように硬い、ケン・ローチ監督の信念が伝わってくる作品。
ラストの展開など、きっと賛否は分かれるだろうけれど、自分は、細部まで神経を行き届かせた、素晴らしい脚本と演出だったと思う。
年ベス候補3本目。
<ここから内容に触れます。いつも以上に長いですので、お時間があったらお読みください>
・「分断」は、ホントに世界のスタンダードになってしまっているんだなぁ…。
冒頭からずっと描かれる外国人排斥のヘイトや「自己責任論」など、日本のSNSなんかで垂れ流されてる文言とそっくりで、既視感すらあった。
・わかりやすい身近な誰かのせいではなく、複合的・構造的に苦しい状況に追い込まれていることは、みんなに自覚があるのだろう。ただ、それに抗う方法はわからず、気力や財力もとうの昔に奪われて、誇るものがナショナリズムしかないミジメなマチズモたちの攻撃の矛先は、必然的に弱者に向かう。
「弱い者の頭を踏みつける方が楽」という言葉が刺さるが、若者や子どもたちがそれを学んでしまうのは、悲しすぎる。
・一番攻撃的なヴィックが、かつて、みんなで連帯して闘ったストを逃れようとしたことを、今もごまかし続けるようなズルい自己中というのが、とてもしっくりくる。
ただし周囲の人々ももう歳なので、知ってる人たちや知ってる環境の中で、今まで通りに生活したいという気持ちから、ヴィックみたいな者に同調して、余所者を排斥する方向に進んでしまうのは万国共通で、現在の我が近所にもみられる風景なのは、寂しい限り…。
・そんな中でも、難民という立場にありながら、自分を卑下しないヤラの描かれ方に勇気付けられる。壊されたカメラは、泣き寝入りせずに、堂々と「弁償してくれ」と訴えればいいし、受けた支援は、自分自身ができる別の形(写真だったり、食事だったり)で、他の人に分け与えていけばよいのだ。
・そのできる支援の一つ、バランタインに食事を届けるシーンは、泣けた。
「食べるまで帰らない」って、なんて素敵な言葉なんだろう。
・ドラマ「カルテット」に、「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」って名言があったけど、「あなたの生きる意思を、私は見届けたいの。なぜなら、あなたは私にとってかけがえのない人だから」っていうヤラの心の声が聞こえてくるようだった。
ケン・ローチ監督の、「そうした、ちょっとした踏み込みが大事なんだよ」というメッセージが、ど直球で届いてきた。
・民族楽器の生演奏付きのスライドショーや、子ども食堂のシーンも素敵だったけれど、自分が最も心揺さぶられたのは、大聖堂でのシーン。
・バランタインは、父の言葉として「教会が偉いんじゃない。大聖堂をつくった職人たちが偉いんだ」と語り、ヤラは「どうやって石を積み上げ、光を取り込もうとしたのか」と1000年前の人々が、叡智を結集してこの大聖堂をつくり上げたことにふれつつ、同時に、イスラム原理主義を唱えるISに、シリアの人々が大切にしてきた遺跡を破壊された「取り返しのつかなさ」を語る。
・人々の思いの結晶も、価値のわからない愚か者たちの暴力で、一瞬で破壊されてしまうというのは、形あるものに限らない。民主主義も、平和主義も、基本的人権も、その価値をキチンと認識していないと、取り返しのつかないことはすぐにでも起きてしまうのだということが頭をよぎった。
・力を持つ者たちが振るう、そうした暴力に対して、力を持たない者たちができることは何なのか。それは、協働と連帯なのだと、監督同様に自分も思っている。
・「本当にただで食べられるの?」「今日だけじゃなくて?」という子どもたちの声に応えられなかった切なさ。それでも、最後には希望の光が見えた。
・パブという言葉は、パブリック(公共)が語源だそう。
分断ではなく連帯。やっぱりそれが、パブリックのあるべき姿だと思う。
<ここからは、内容ではなく、「映画」としての感想>
・具合の悪くなった少女を、ヤラが助けて家まで送り届けるという自然な展開から、彼女の家の台所や冷蔵庫にはまともな食べ物もないということを観客に発見させる描き方に痺れた。
・写真をスライド的に使った冒頭のシーンとか、シリアの様子を、兄の友人からの「現地の動画」という形で見せるところとか、過不足ない整理の仕方も惹かれる。
・TJの相棒の犬「マラ」が、大型犬に噛み殺されるシーンなど、SNSの暴走を制御できないIT長者たちや、シビリアンコントロールの効かない軍部が連想される。しかも、そのマラは、TJを自死から救った存在だった等、幾重にも意味を重ねているエピソードのチョイスが、物語を豊かにしていて、鑑賞の満足度はすこぶる高かった。
・セリフも胸に響く。
「シュクラン」もよかったのだけれど、自分は、チャーリーに対して、バランタインがかける「I know.」が本当に沁みた。
あんな仕打ちをされたのに、見捨てていないんだよなぁ…。
不遇すぎる
・シリア難民とイギリス?の片田舎の村民の話で誰も彼も不遇な状況と展開で観ていて可愛そうになってくるものの登場人物たちがお互いに気を遣って支えあう関係性があったおかげか深刻な印象よりも温かい話に気持ちが残った。
・冒頭でカメラを壊されたヤラ(エブラ・マリ)が弁償してもらうといってオールドオークに来ていて強い女性だなと思った。
・パブの常連の何をしているのかわからない中年達がT・J・バランタイン(デイブ・ターナー)へ水道管を壊し20年ぶりに使用し始めて難民たちと交流をし始めた矢先に広間を使えなくする陰湿な嫌がらせをしていた。そこから解決する所まで話が進むのかと思ったら途上で終わって同級生?のチャーリーとは和解したような感じだった。他の三人はどうしたのだろう。
・バランタインが父親の死や奥さんたちとの別れから自殺を考えた2年前の4月9日に現れた子犬のマラが大型犬に殺されて、そこまで追い込むかと思った。
・ラスト難民のヤラの父親の葬式に村民が集まって花を手向けに来ていた。そこからようやく村の一員になったという印象で映画は終わった。そこまでの事がないとダメなのかと思ったり、自分が村民側だったら外国人が続々住み始めるのは何か起こりそうで怖いと思うだろう。反対に難民側だったら居場所もなく居た堪れない気がするしヤラの弟のように学校でトラブルに巻き来れたりしそうで落ち着けなさそうと思った。お互いに仲良くできればいいのが最善だけれど国も文化も違うものをすぐには難しすぎると思った。
こども食堂
酔っぱらいは ヘイト野郎が多いかもです。
ケン・ローチの描くリアルワールド
今迄
優しい世界の話に見えなくもないけど……
怒りと信念
グッとくる感動作!
予告編を見た時から、早く見たい映画でしたが、遅くなりました
確かに見終わった時にグッとくる感動作で、わずか10年前のイギリス北部の町、夕張同様に炭鉱の町だったさびれた町が舞台で、祖国を逃れ命懸けで地中海を超えて、ようやく辿り着いたシリア難民と貧困にあえぐ地元民との対立、差別・いじめ、イギリスだけでなくそんな彼らに世界中で起こっている迫害に対し、TJのような人が居たことが救いで、連帯につながる希望を描いた作品です
トランプに見せたい映画でした!
よく漢字の「人」が、「二人が支えあっている」と言われるように、人は何かに支えられて生きていける、それが例えTJのように子犬であっても、自殺を思い止められる
「人と人はお互いにいがみ合うのではなく、愛を持って支え合い生きよう! それが大きくなって皆で連帯しよう!」とケン・ローチ監督は言いたくてこの作品を作ったと思いました
日本は少子化でタクシー・バスの運転手も、なり手がおらず、地方のバス路線も無くなっている状況なのに、外国人の移住に反対する人が多いけど、家族ごと受け入れて、日本語教育と彼らの子供にも学校で教育して、共存する道を選ぶ必要があると思いますが、ここ数年少子化対策も無策に近く、総理があれじゃあ少数意見のようです
これは日本
差別や偏見は無くならない
人は弱いから差別や偏見を身にまとう
これは自然な防御本能ともいえる
そういう意味ではそれらは決して無くならない
人種で括っての差別も偏見も暴力的だが
弱い人たちが見聞きする「差別・偏見の元」は
あまりに刺激的で暴力的で、配慮や気遣い、文化への
リスペクト、共存するための努力を見えなくする
映画ではそれらをとてもマイルドに表現していて
リアルさを失わないなかで明確にメッセージを
伝えてくれる
ただし、ラストシーンについては予定調和的で
リアルさが失われてしまったようでちょっと残念
かといってそれ以外の方向性での着地は難しかったと思うが・・・
以下、コメントくださった方へのチャッピー君からの回答
映画『オールド・オーク』の旗に見える “Battalion(バタリオン)” という言葉は、直訳すると「大隊(軍隊の部隊)」です。
ただし、あの場面では単純な軍事用語としてではなく、
「共に戦う仲間たちの集団」
という象徴的な意味合いで使われています。
なぜ炭鉱の旗に「Battalion」が出てくるのか
これはイギリス労働者文化、とくに炭鉱町の歴史を知ると見えてきます。
炭鉱労働者たちは歴史的に、
危険な坑道で働く
ストライキで国家と対立する
戦争で徴兵される
仲間の死を日常的に経験する
という背景がありました。
そのため「労働者の団結」が、しばしば軍隊的な表現で語られます。
例えば:
ranks(隊列)
comrades(同志)
banner(軍旗のような旗)
march(行進)
battalion(大隊)
などです。
つまり、
「俺たちは孤立した個人ではなく、共に進む隊列だ」という感覚ですね。
この映画では特に重要なのが、
「炭鉱労働者」と「シリア難民」が同じ旗の下に並ぶことです。
ここでの “Battalion” は、「敵と戦う軍隊」ではなく、
「困難の中でも共に立つ人々の隊列」
を意味していると考えると、映画全体のテーマと綺麗につながります。
さらに深い背景:労働運動と“戦争の比喩”
イギリス労働運動では昔から、階級闘争、ストライキ、貧困との戦い
を「battle(戦い)」として表現してきました。
特に炭鉱町は、1980年代の UK miners' strike (1984–85) で国家と激しく対立しました。
その記憶があるので、「Battalion」という言葉には、
・国家に見捨てられた者たち
・労働者
・貧困層
・難民
が“同じ側”にいる、というニュアンスが宿ります。
つまり、あの旗は何を言っているのか
映画全体を踏まえると、あの旗は:
「出自が違っても、苦境の中で支え合う者たちは同じ隊列にいる」
というメッセージに近いです。
だからラストの行進は、軍事的な威圧感ではなく、共同行進、記憶の継承、連帯の可視化
として描かれています。
あの場面でブラスバンドが鳴るのも重要で、あれも炭鉱労働者文化では「隊列の音楽」なんですね。
結果としてあの旗は、
“かつて炭鉱夫たちが掲げた連帯の旗を、今は難民も共に持っている”
という、映画の核心そのものになっています。
以上
なるほど、コメントいただいたおかげでより深く映画を理解することができました
ありがとうございます
巨匠の切実な声
愛を恥じずに
イングランドにて、寂れたがかつて炭鉱で栄えた村にシリア難民がやってきて…変わりゆく村人の憩いの場となっていたパブを描いた作品。
のっけから兎に角地元民の素行が悪いこと悪いこと!!
難民女性のヤラは早速大切なカメラを壊されてしまい…。
TJのお店にて、炭鉱夫達の歴史を目の当たりにしたヤラの表情が印象的。形は違えど自分らと同様闘ってきた彼らにシンパシーを覚えたのかなぁ。
マラ…。タイプは違えどホラ、意外と仲良くできたでしょ?…ってな感じの伏線に持っていくのかと思いきや、マジかよ。
そんなこんなで、難民や子ども達のために無料食堂を始めたり、地元民との軋轢だったり、共生の難しさをこれでもかと見せつけてくる。
ただ、ちょっと思ってしまったのが、何もここまで地元民を悪役に描く必要があったのかしら?ペットフードのくだりとか、悪魔そのものじゃん。排他的な田舎だとこういうのありえるのか?
こういう問題を扱う作品なら、ド真ん中とは言わずとも反対側の意見や事情をもっと汲んだものであって欲しいな。
でも、小さな村だからこその怖さだけでなく、小さな村だからこそのあたたかさも見せてくれたし、絶望の淵に立たされたTJがより苦しむ人々に励まされたり、自分の苦しみがいかに小さいものかと、勇気づけてくれるという意味ではよい作品だった。
…そんで、ひとり息子は出ずじまい??
溢れる誠実さに涙
固くて丈夫、暖かみのあるオーク(楢)を想起させるタイトルが象徴するように
誠実な気持ちに溢れ、それが全編にわたって伝わってくる映画。
それは登場人物に性格の良い人が多いということではなく、
物語の展開、人物の描写、画面の構図、音楽、
彼らを捉えていくさまざまな観点で、ケレン味がなく、誠実さが滲み出ていて、
冷静に考えたら何でもないところでも、胸が熱くなって不思議と涙が出てしまう。
イギリスの地方の炭鉱町に長く住んできた住民たちは、
初め避難してきた移民を警戒、差別し避けていたが、
ちょっとしたきっかけで心を通じ合い、仲良くなっていく。
現状を動かすのは、政治とか大きな権力だけではなく、
我々の日常の共有、小さな努力の積み重ねが大事なのだと思い知らされる。
ラストシーンにあるような状況において、
宗教や文化や考え方や習慣が異なっていても、
近くにいる辛く悲しい思いをしている相手の心に寄り添うことが
平和への一歩なのだと、涙を流しながら思わされた。
これまでの作品に、只々感謝を。
最後だと言われているケン・ローチ作品。
それほど差は大きくないとはいえ、我々とは文化や習慣、作法の違う国の市井の人々の境遇を、あっという間に我が事の様に実感させてくれる、いつものケン・ローチのマジック。いつもながらに胸を締め付けられる様に見た。今回は、他所からの難民受け入れと言う中々解決の糸口さえ見つからない問題に向き合い、やはり、解決できない人々の姿で終わるラストだった。それでも最後のシーンでは、「統治」ではなく「連帯」なのだと言うメッセージを強く感じた。過去作の様に社会悪の人々が物語を捩っていくのだが、これ迄人々は顔は見えても匿名性を持つ描き方だった様に思うが、今回は悪者ぶりが目に付いた。何か「自分も市井のひとり」と云う自戒の意図が込められているのだろうか。とは言え、この最後と言われる作品でも我々に当事者感を持って考えさせられるメッセージの強さは健在だ。89歳か…軽々に辞めないでくれとは言えない。それ以上にこれまでの作品を世に届けてくれた感謝に尽きる。
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