「急ぎ過ぎた脚本」フランケンシュタイン アダム・ザ・モンスター R41さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5 急ぎ過ぎた脚本

2026年5月7日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

『フランケンシュタイン アダム・ザ・モンスター』という作品を見ながら、ずっと考えていた。
フランケンシュタインを描く上で、本当に必要なものは何なのだろうかと。
もちろん怪物性は必要だ。
異形も、暴力も、恐怖も必要だろう。
だがそれ以上に必要なのは、「愛」なのではないかと思う。
なぜならフランケンシュタインという物語は、怪物が暴れる話ではなく、拒絶された存在が壊れていく物語だからだ。
本作は、その点を理解していないわけではない。
アダムは、“ママ”と呼んだ博士の妻に拒絶される。
唯一心を許しかけた犬を失う。
そしてエディと出会い、少しずつ言葉を覚え、人間社会へ触れていく。
その流れ自体は悪くない。
むしろ核はちゃんと存在している。
だが、その核へ向かう描写が、あまりにも説明的だった。
アダムは社会システムや貧富の差について考え始める。
哲学的な問いにも踏み込む。
しかしそこに至る過程が、彼自身の行動や反応ではなく、ナレーションによって処理されてしまう。
そこに強い違和感が残った。
もし彼が本当にそこまで思考できるなら、ワンダを殺したりはしないだろう。
少なくとも、あの段階では。
アダムという存在の恐ろしさは、“悪”ではない。
むしろ逆だ。
倫理も未成熟なまま、巨大な力だけを持っていること。
自分自身をコントロールできないこと。
そこにこそ怪物性がある。
人間の最大の問題点も、結局そこなのだと思う。
自分を制御できなくなること。
怒り、欲望、孤独、喪失。
それらに飲み込まれた瞬間、人は簡単に誰かを壊してしまう。
だからこそ、本作で一番印象に残ったのは、湖で少女を放り投げてしまう場面だった。
あの場面には悪意がない。
ただ、「遊び」と「死」の境界が理解できていない。
しかし力だけは圧倒的に強い。
そこには確かに、“人造人間の悲劇”が存在していた。
本来この作品は、アダムの言葉ではなく、彼の反応によって描かれるべきだったように思う。
誰かに怯える視線。
拒絶されたときの戸惑い。
触れられたときの安堵。
怒りと悲しみの区別がつかない混乱。
そういう積み重ねの中で、観客は少しずつ、
「これは人間と何が違うのだろう」
と考え始める。
だが本作は、その余白を急ぎすぎてしまった。
終盤も同じだった。
ヴィクター博士の妻は、警察署ではアダムを強く拒絶していた。
ラボでは夫と抱き合い、アダムのことなど頭にないように見える。
にもかかわらず、クライマックスでは突然アダムを庇う。
そこに母性のようなものがあったのかもしれない。
だが観客は、その感情の変化を共有できていない。
だから悲劇ではなく、脚本上必要な事故のように見えてしまう。
アダムも同じだ。
彼は復讐のためにラボへ向かった。
なのに“ママ”を見た瞬間、その感情が急速に萎えていく。
そこには確かに、憎しみと愛情が同時に存在していたのだと思う。
だが、その最も重要な感情の揺れが、十分に描かれないまま物語だけが進んでしまう。
惜しかった。
本当に惜しかった。
なぜなら、この作品には確かに核があったからだ。
「ぼくはアダムだ」
彼の最後の言葉は、「私は何者だ?」という問いへ接続していく。
だがそれは、単なる記憶喪失の話ではない。
知識がないとか、過去がないとか、そういうことでもない。
名前も。
役割も。
記憶も。
社会性も。
それらを剥がされたあと、それでも残る“私”とは何なのか。
本作は、本来そこへ辿り着ける作品だったように思う。
エディの、
「見えなくても大丈夫。口がきけなくても大丈夫」
という言葉から、もっと丁寧に。
もっと静かに。
もっと痛みを伴って。
アダムという存在を通して、人間そのものへ接続できたはずだった。
だからこそ、この作品は少し惜しい。
テーマは決して軽くない。
だが、その深度へ至る感情の導線が、あまりにも急ぎ足だった。
結果として、観客の体感温度だけがB級へ留まってしまったように思う。

R41
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