イージー★ライダーのレビュー・感想・評価
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こういうお気楽なロードムービー好きだわあ、と思っていたら・・・。
恰好よくて、お洒落で、麻薬などアウトロー感もある「自由な空気感満載のロードムービー」だから、若者やバイク乗りのバイブル的存在になるのもわかるよなあ、と肯きながら観ていたら、、、
それはほんと表面的な一部分でしかなく、この映画の根幹は「お洒落なロードムービー」とは全然別のもっと重いものであることを知り、今さらながら「こういう映画だったのか!」と驚いた。
長髪やバイクなど普通からはみ出るものを忌み嫌い、排除しようと実力行使するアメリカ。
自由な国アメリカのイメージとは正反対。 ザ・村社会。
イメージとは異なる「アメリカの暗部」をあぶり出している。
彼らが旅をスタートしたカリフォルニアなどの西海岸はリベラルな風土だが、テキサスなど、どんどん南部の田舎の方に行くにつれ閉鎖的な風土へ。
これって最近どこかでお目にした構図。。 あっ、トランプ大統領の支持基盤だ!
オバマやクリントン、バイデンのようなクリーンでリベラルで都会的なトップを選ぶアメリカもあれば、実利主義でアメリカ第一で白人労働者階級を露骨に優遇するトップを選ぶアメリカも存在する。(上映から50年を経過した現代でも!)
最後の、命があまりに簡単に奪われるシーンは、保守的な人間の「我こそ正義」という感を強調することに成功している。 (これは飛行機で撮ってるよね?まだドローンないものね。)
荷物が重い 俺の肩に 今夜だけは ゆっくり眠りたい。 60年代末のアメリカの実相がここに…。
アメリカを横断する2人のバイク乗り、ワイアットとビリーの道中を描くロードムービー『イージー★ライダー』シリーズの第1作。
コカインの密輸により大金を得たワイアットとビリーは謝肉祭に参加するため、ロサンゼルスからニューオリンズまで気ままなバイクの旅へと出かける。様々な出会いを経験しながら南部へと辿り着いた彼らを待ち受けていたのは…。
2人の旅に同行するアルコール中毒気味の弁護士、ジョージ・ハンセンを演じるのは『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のレジェンド俳優、ジャック・ニコルソン。
“ぼ〜〜〜んとぅびわ〜〜〜あぁぁあい♪♪♪“と、ステッペン・ウルフの「ワイルドでいこう!」(1968)がギャンギャンに鳴り響くことで知られるバイク乗りたちのバイブル。既存の古臭いハリウッド大作に中指をおっ立てるが如き当時のムーブメント「アメリカン・ニューシネマ」を代表する一作、かつ主演を務めるピーター・フォンダが製作/脚本を、その相棒を演じるデニス・ホッパーが監督/脚本を担当したインディー映画でありながら製作費の100倍以上の興行収入を叩き出した大ヒット作である。
ここに記録されているのは1960年代末のアメリカのリアルな姿。ロックやポップカルチャーが花開く一方でマリファナやLSDなどの薬物も国内に広がり、サマー・オブ・ラブは終わりを迎え、アメリカ南部では人種隔離を正当化する州法「ジム・クロウ法」が公民権運動の拡がりにより64年に廃止されるも、63年にケネディ大統領が、68年にキング牧師が暗殺された。そんな光と闇が入り混じる混沌の時代が、星条旗を身に纏った“キャプテン・アメリカ“の目を通して映し出される。
麻薬で儲けた金をオイルタンクの中という危険極まりない場所に隠すという行為や、ビリーに告げる「失敗だよ」というセリフ、そして「長髪」というただそれだけの理由で殺される悲劇的なラストなど、ワイアットの言動は全てメタファーに彩られており、“自由の国“アメリカが患う宿痾が鮮烈に描かれている。
本作の公開から55年以上経った今でもこの病は完治の兆候すらみせず、むしろ悪化してきている。この事実には暗澹たる気持ちを抱くが、それはこの映画が示したテーマの確かさの証明でもある。おらが村に引き篭もる保守層がなぜ異文化を恐れ、それらを排除しようとするのか。本作を観ることでそれを漠然とだが理解することが出来たような気がする。その解決方法は自分たちで考えるしかないのだが…。うーん……。
監督のデニス・ホッパーはヨーロッパ映画やインド映画界の巨人、サタジット・レイに心酔していたらしく、本作も娯楽映画というよりはアート映画寄りの作風である。物語らしい物語がない上、後半になるにつれてどんどん映画は抽象度を増してゆく。突然16mmフィルムの粗い画質に切り替わる謝肉祭のシーンなどは、現実の出来事なのかLSDによる幻覚なのか、それすらも判然としない。一体何を見させられているのか…と困惑するが、このサイケデリックかつ予言めいた不穏さはカタストロフィーの前フリとして効果的だったとも言えるだろう。
てっきりここは演出上の意図を持ってカメラを変えたのだと思っていたが、実は制作上のゴタゴタの結果、やむなくホッパーの友人が持っていた16mmカメラで難を凌いだのだとか。この謝肉祭はクランクイン前に撮影されており、細かい打ち合わせどころか映画のストーリーすら碌に決まっていなかったというのだから驚く。見切り発車にも程があるだろ💦
インディー映画らしい撮影のガバガバさはクランクイン後も続き、基本的にフォンダとホッパーはもちろんのこと、スタッフも出演者も撮影中ずっとマリファナやっていてラリパッパ状態だった。メイキングドキュメンタリーを見ると「あの時はマリファナやってて、撮影かどうかもわかってなかったんだよね〜」とか「あの場面のコカインは本物用意したんだぜ〜」とか「撮影の前日にやったLSDの体験をセリフに組み込んだのよ〜」とか、終始おクスリのことしか話してなくて笑う。大らかとかそういう次元じゃねーぞっ!!!
脚本もあるんだかないんだかよくわからないというのが実情で、映画中何ヶ所かある野営地での談話シーンはほぼ全てアドリブ。間やセリフのフワッフワ具合がリアルだなぁ、と思っていたが、そりゃそのはずで演技でもなんでもなかった。ただマリファナ吸いすぎたオッさんたちが駄弁ってただけじゃねーかっ!!
一番凄いのは南部のコーヒーショップで出会う住人たちは、皆全てその場にいた本物の現地人だという点。いちゃもん付けてきた保安官に出演依頼をし、その辺のオッさんたちに「この3人はレイプ殺人犯なんで、好きな言葉で罵っちゃってください」と罵詈雑言を浴びせるように指示した。あの場で発せられた「長髪のオカマ野郎」とか「テメェらなんか白人じゃねぇ」とかいうセリフは全部リアルな言葉なんだと思うと、とんでもねぇことしてんなこの映画と驚くやら呆れるやら。
それだけでなく、クライマックスでワイアットとビリーを撃ち殺すオッさんも、近くのガソリンスタンドでスカウトした一般人。映画の一番大事なシーンをどこの馬の骨か知れない奴に任せるかフツー!?こういう感覚のぶっ飛び方もマリファナのおかげだったのだろうか。
この映画、とにかく南部をサイテーな場所として描いているが、そんな映画に住民たちは協力してくれているわけだからむしろ南部は良いところなんじゃないか説が浮上して来ましたねこれは…。まぁもちろん映画の内容についてはお茶を濁してたんだろうけど。
とにかく、アドリブ全開のやり取りや一般人の起用など、そういう生の感覚がこの映画をリアルなものにしており、そこが観客の共感を呼ぶのだろう。スタジオ主導のハリウッド映画では絶対に生み出されなかった、正に時代の産物である。
既存の楽曲を映画のBGMとして用いることを「ニードルドロップ」と言うらしいが、本作はそのはしりであり、最も効果的にこの技法を使った映画のひとつである。使われている楽曲がどれも最高だというのもさることながら、その歌詞の内容と物語がきちんとリンクしている点が素晴らしい。特にザ・バンドの「ザ・ウェイト」(1968)をバックにモニュメント・バレーの荒野を突き進む場面がもう美しすぎて、ここ観るだけで号&泣😭自由の裏側に付きまとう孤独と悲しみを歌い上げた歌詞が夕日に焼ける赤い大地とマッチし過ぎてもう堪らんかった。「ワイルドでいこう!」のキャッチーさは確かに良いが、個人的には「ザ・ウェイト」がこの映画のサントラでは一番です!!
あと、ロックファン的にはヤクの取引相手役として“ウォール・オブ・サウンド“で知られる名プロデューサー、フィル・スペクターが出演している点が見どころ。後にこの人、ヤクでラリって愛人を射殺して終身刑をくらいます。クスリ、ダメ、ゼッタイ。
デニス・ホッパーはこれを220分の超大作にする予定だったらしいのだが、公開版は95分とタイト。もしも完成形がホッパー版だったら、とてもじゃないが最後まで見通すことなんて出来なかっただろう。編集をした人、ナイス👍
正直アメリカン・ニューシネマはどれもスターのナルシシズムが鼻につくのだが、本作にもその傾向はある。なんやかんや難しそうで崇高なテーマを語っているけど、これ結局バイクに乗る自分たちをカッコよく撮りたかっただけなんじゃねーの…?とか思わんこともないけど、音楽も映像も素晴らしく、非常に満足な鑑賞体験となった。今なお語り継がれるのも納得の傑作であります。
ちなみに、本作にはワイアットの若き日を描いた前日譚『Easy Rider: The Ride Back』(2012)というものがあるらしい。オリジナル版のスタッフが誰一人として関わっていないという疑惑の一作で、日本公開もされていないのだが、一体どんな内容になっているのか。そちらも気になる…がまぁ観ることはないだろうなぁ…。
※日本語吹き替え版で鑑賞。ピーター・フォンダを演じるのは山田康雄。やはりもみあげがもっさりした細身の俳優の声にはこの人しかいない。一部、多田野曜平が追加で声を吹き込んでいるのだが、そうと知っていないとまず気が付きません。素晴らしいプロの技👏
驚くのはジャック・ニコンソンの声優。やたら良い声だけど誰だ?と思って調べてみたら、まさかの『踊る大捜査線』(1997-)のスリーアミーゴスでお馴染みの俳優、北村総一朗だった。若い頃は洋画の吹き替えとかもやってたんですね〜。
本当の自由ってなんだろうね?
新たな価値観を模索して彷徨うアメリカは今も
アメリカン・ニューシネマの代表作と言われながら、何となくのイメージで、ステッペンウルフの「Born to Be Wild」をバックに、お気楽にチョッパーを走らせている映画と思い込んでいたトホホな自分…。
ちゃんと観たのは今回が初めて。今観たからこそやっと受け取れたところもあると思うが、時代の空気感の切り取り方と、その鮮やかさがエグい。
今の10代20代は、また、半世紀後の10代20代は、どの登場人物の立場に立ってこの作品を観るのかな…どんな感想を持つのかな…そんなことも思った。
途中で拾ったジャック・ニコルソン演じる弁護士のオカルティックな妄想や、LSDによるサイケデリックな幻覚などに意味を見出そうとするところは、いろいろと連想されるものがあって、とても60年代っぽく興味深かった。
それにしても、ジャック・ニコルソンとお酒やドラッグの相性の良さは、何も言うことなし!
素晴らしい👍
<ここから内容に触れます>
・ピーター・フォンダの父は、「怒りの葡萄」で主人公のトムを演じたヘンリー・フォンダ。
・父が映画の中でオンボロトラックで渡った橋を、息子は30年後の映画の中で、ピカピカのチョッパーで逆方向に渡り、旅が始まる。
30年という時の流れで何が変わったのか。2つの作品に見られる対比や共通点が興味深い。
・例えば、父(ヘンリー)が演じたトムの一家は、資本家に土地を追われて、生活のために一家全員でカリフォルニアを目指し、逆に、息子(ピーター)が演じたワイアットは、薬物の密輸で資本家から大金を得て、カリフォルニアを離れ、友人とニューオリンズを目指す。
真逆とも思える設定は、父と不仲だったと言われるピーターが制作したから?などと勘ぐりたくなる。(真偽は分かりません)
・ドラッグが日常的にそばにあり、途中でピックアップしたヒッピーに招かれて、彼らのコミュニティでしばらく滞在する場面も描かれるなど、今作前半は、一見すると、60年代のカウンターカルチャーに則った作品のようにも見えるが、実はそこにもハマりきれないワイアットたちの虚無感が、過剰とも思えるカメラワークで際立つ。
・確かに、道すがらに映し出されるのは、捨てられた土地だったり、都市と地方の格差だったりと、全体として体制批判的な雰囲気。ただ、意外なことに、ピーターが演じるワイアットは、カトリック教徒を妻にもつ大家族の主(中絶禁止なので、子だくさんなのでしょう)に対して、「大地に根を張った」と言って尊敬の念を伝え旧来の価値観を尊重し、逆にヒッピーたちの描き方は「頭でっかちな都会っ子たち」という感じで、決して全面肯定でもないのが心に残る。
・そして、ラスト。ハッキリ言って予想外な結末で衝撃的。
ワイアットたちの振る舞いが許せない者たちの無邪気な残虐さに、心の底から寒気がした。
・「ビリー・ザ・キッド」と「キャプテン・アメリカ」になぞらえられた主人公2人のさすらいは、迷いつつ新たな価値観を模索する「アメリカ」という国を象徴させているようにみえる。
・半世紀以上たって、当時とは時代が変わったけれど、描かれている「悲劇」は、今も形を変えて生き残り続けているし、それはアメリカに止まらない。観終わって感じたのは、その怖さと虚しさだった。
時代が殺した夢の終わり、またはアメリカの自己否定の物語
なんか酷評多いみたいだけど、本作を今の感覚で「面白いか/面白くないか」で評価すること自体ナンセンス。
本作は1960年代後半アメリカの精神史を刻印した記録映画であり、低予算インディペンデントによるアメリカン・ニューシネマの起点として理解されるべき作品。
舞台となるアメリカ南部は、南北戦争以前から黒人奴隷制に支えられてきた白人支配の保守的な地域。そこでは「秩序」を乱す存在は排除され、黒人への暴力が日常的に黙認。カントリー音楽を愛し、「自分たちこそがアメリカの良心だ」と信じて疑わない世界。
一方、ニューヨークをはじめとする東海岸は政治・教育・文化の中心としてアメリカを形成してきた地域で、主人公たちが出発する西海岸・ロサンゼルスは、その東海岸的価値観の堅苦しさから逃れてきた若者たちが集う、流行と思想の最前線。
60年代後半の西海岸は、ザ・バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ドアーズ、ママス&パパスといった音楽が鳴り響き、東海岸のウッドストック、ボブ・ディランやジョーン・バエズらフォーク勢と連携。公民権運動、反戦運動とラブ&ピース。そうした新しい価値観への目覚めがあり、その意識の拡張としてドラッグが作用していた。グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインに象徴されるサイケデリアの世界観は、彼らにとって「世界を変えるための思想」であり、単なる退廃ではなかった。
だけど、長髪、フリーセックス、ドラッグというヒッピー文化は、旧世代の大人たちから見れば、自分たちの価値観を破壊する無法者にしか映らない。だから彼らは、黒人リンチと同じ暴力性をもって排除されるべき対象だった。
カフェの場面でそれは象徴的に描かれる。保安官たち=大人たちは、州境を越えた“殺しても裁かれにくい場所”での暴力を示唆する一方、若い女の子たちは主人公たちの自由と新しさに惹きつけられている。あの場面にこそ、世代による価値観の断絶が凝縮されている。「自由に生きている人間が怖いんだよ」そう呟いたジャック・ニコルソンのあのセリフが「自由の国アメリカ」の実態なんだと暴いてる。
皮肉なことに、ピーターフォンダはキャプテン・アメリカつまりアメコミのヒーローとして描かれ、ハーレーのタンクやヘルメットは星条旗で彩られる。デニスホッパーは長髪だけど、その格好はカウボーイウエスタン。古き良きアメリカ西武開拓者の服装。ジャックは大学アメリカンフットボール選手出身の弁護士。つまりガチのエリート。3人ともアメリカの過去、現在、未来のヒーローの姿。これは古い価値観のアメリカ人が理想のアメリカ人を殺す自己否定の物語としても読み解ける。
面白いのは、馬と共に暮らす慎ましい家族ら本当に古い世代の人たちやコミューンで暮らす新世代の若者たちは彼らを受け入れ、トレーラーを乗り回す白人中産階級だけが主人公たちを敵視していること。そう考えると世代間闘争であるように見えて実は、「浮遊する中産階級」の勢力争いとも読める。宗教国家アメリカのキリスト教との関連でも信仰に篤い前者2つとの対比も感じられた。
物語後半、娼館で出会った天使のような娘たちと、墓地でLSDをキメて幻覚を見るシーン。この自由がすでに“儚い夢”でしかないことを自覚しているかのように物語はクライマックスに向かう。ラスト、2人は無惨に殺され、新しい世代の希望を乗せて走っていたバイクもろとも炎上爆発。その後味の悪さこそが、この映画の核心であり真骨頂。
音楽映画としても、カウンターカルチャーの抵抗とその死を描いた映画としても間違いなく傑作。書き下ろしの音楽を依頼する予算がなくて、結果的に当時のヒット曲を集めた形となったサントラもその後の映画発信のサントラブームの先駆けになった。
映画が公開された1969年という時代は、カルト教祖チャールズマンソンによるシャロンテート虐殺事件、ストーンズのフリーコンサートでのヘルズエンジェルズによるオルタモントの悲劇などがおきて、それまでのフラワームーブメントの理想、ウッドストックの奇跡が夢であり幻だったと誰もが気づいてしまった時代でもある。つまり、この映画は、ヒッピームーブメントの終焉を予告する映画。時代が殺した夢を、次の世代がどう受け取るかを問う映画だとは言えやしないか。
最後に一つだけ。
この映画には黒人がまったく出てこない。黒人差別の激しい公民権運動真っ只中の南部アメリカでそれは異常。ジャズ発祥のニューオリンズのマーチングバンド、黒人のアイデンティティそのものとも言える文化すら白人の女の子たちで編成される。これが意味するところは、黒人は差別すらされない透明な存在。人間扱いすらされてないということ。「理想のアメリカ」を巡って争うのは白人のアメリカ人だけで充分。そういうリベラルの欺瞞を描いた映画のようにも感じる。
思いつくままに書いてしまったので乱文長文ご容赦。
ヒッピーを思い出した
ロードムービーとは思うが暴力描写がえげつない。とくにラストシーンは意味なく二人が殺されるのも意味不明。これが「アメリカン・ニューシネマ」といわれるゆえんか?
社会的束縛を逃れて自由な旅を続ける若者たちが最後は殺されるてどうなん?そのまま自由に旅してたらええのんちゃうのん。
どう考えても納得のいかない終わりやけれど時代背景からこういうことが日常茶飯事だったんだろうか?
今は余り見ない形のハーレー・ダビットソンだが直線は走りやすそうやけれど小回りはしにくそう。アメリカの広大な土地に広がるまっすぐな道が似合ってる。バイクの趣味は無いけれど一度は乗ってみたくなる思いをさせてくれる映画でした。
でも最後は炎上しちゃうんよなあ・・・
映画というかほぼMV
アメリカン アメリカン
昔テレビで観た以来、映画館では初鑑賞。若きピーター・フォンダ、デニ...
昔テレビで観た以来、映画館では初鑑賞。若きピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、そしてジャック・ニコルソンの破壊力。ヒッピー、ドラッグとセックス、そしてハーレーとフリーダム。これぞアメリカン・ニュー・シネマ。アメリカの保守派は今もそう変わっていない。ああいう連中がトランプを大統領にしちゃうんだから、恐ろしい。昔はなかったと思うけど、字幕にいちいち曲名とアーティスト名を入れるのは、ちょっと興醒め。ミュージック・ビデオではない。気になる曲があれば後から調べればいいし、まったく必要ない。映画とはそういうもんだ。あとニューオリンズの「マルディグラ」を「謝肉祭」と訳す必要もなし。「イージー・ライダー」の中黒を★にするのも、つのだ⭐︎ひろみたいで、軽くて嫌いだ。内容に合ってない。
‘70年代前半の中学生の目には衝撃作だった
中学生になりたての頃に、都内の名画座で鑑賞した。
バイクを駆って旅するという以外には、殆ど予備知識らしいモノは無い状態での鑑賞であり、当然、その結末など知る由もなかった。
当時は巷にポスターやパネルなどを扱っているアートショップみたいのがそこそこあり、オートバイに乗ったこの作品の登場人物の大判ポスターも人気で、それこそあちこちで目にし、映画自体は知らず観ていない人でも「イージー・ライダー」というフレーズとその象徴的なビジュアルであるチョッパー・バイクの認知度に限れば相当高かったと思う。
鑑賞後には、反体制の象徴としてのイメージだけ勝手に世間で一人歩きしていたように思った。
アメリカの若者文化の象徴的にイメージされていたが、殆どの人は作品自体を観てはおらず、まさにこのポスターからくる“イメージ”のカッコ良さだけ表面的なものだっただろう。
何故なら、日本での公開も都内では有楽町のスバル座というミニシアターに近い小規模劇場での単館ロードショーに留まってのものにすぎず。
従って、その後の名画座(関東地区)での上映も、順次その同じフィルム一本を使い回していた程度だったと推察されるからだ。
その程度で、一体どの程度の人が実際に鑑賞したのか、たかが知れていると思う。
そんな時代の中で、アメリカ文化への傾倒が相当強くて、何でもかんでも”アメリカナイズ”で、映画少年を自負している身である以上は、特有なデザインを施したチョッパー・バイクがシンボライズされたこの映画を未鑑賞のままでいられはしない。
わが国では1970年1月から単館ロードショーされたが、当時既に洋画を日常的に観ていたものの、その時点では小学生だったので、まだアクション、西部劇、戦争物などが主な鑑賞対象であり、このような当時のリアルタイムなアメリカの若者文化をテーマとした”ヒッピー文化・バイク・ドラッグ・セックス”が露骨に前面に出された作品は流石にまだ早かった。
結果的に数年遅れで、中学生になった時点での名画座で鑑賞を遂げることとなった。
初めて見た当時は、開巻から「あれは一体、何をやっているのか....?」状態にあらゆる場面が興味津々だったのと、冒頭から全編に散りばめられた当時のアメリカン・ロックに完全にやられてしまった。
なんらの予備知識も無いままの鑑賞(当時的にはムシロ当たり前)だったので、ある意味“目撃者”のような心境で、最初から最後まで観通した感じがした。
“最後”も知らずに観たので、なんだか唐突に終わりを突き付けられ「ええぇ....」、のような状態になった。
そしてその鑑賞後の結果としては、殆ど”信者”のようになってしまったと言うべきかも?
あと、日本では当時その名前を出しても、知っていた人はほぼ皆無だった“ジャック・ニコルソン”にはドハマリして、劇中度々披露する「ニック、ニック、ニック、ウックックッ!」は思い切りツボにはまって、直ちに推し俳優と化した。
まさか、後年あんなに有名に(主演の二人よりも)、メジャー俳優に化けるなんて、まさに嬉しい誤算だった。
鑑賞後には取り敢えず、巷で手に入るパネルと大判ポスターを何枚も手に入れて、壁に天井にと張りまくった(他の洋画の劇場用ポスターと混在して、殆ど覆い尽くされていた)。
当然のことながら、サウンド・トラックLPを手に入れなければならないので、近所のレコード店頭では入手できないため、在庫を取り寄せて手に入れた。
ジャケット写真がカッコ良かったのでシングル盤も買って、「ワイルドでいこう」繰り返し聴いた。
あとは当時、角川文庫から出ていた脚本そのまま採録したようなテリー・サザーンの原作本や、ピーター・フォンダのシネアルバムとかも….
今でも強く記憶に残る事がこの映画についてあるのが、鑑賞時点での“英語力”は、学問としての英語自体が中学から初めてゼロスタート状態で始まるという背景から想像できるように、“英語力”などと表現出来るレベルにすらない。
そこで、内容的にな所は“字幕”への依存度ほぼ100%という事にな訳で、要するに“英語耳”慣れの域には程遠い為に、「目と耳と同時進行的に両者の情報を比較」など不可能だった。
具体的に説明するとテーマ曲が終了しつつ、夜の場面になってモーテル(車両ごと宿泊=モーター・ホテル)に辿り着くも、「空室」もネオン表示が彼らの姿を見るなり「満室」へと切り替わってしまったシーン。
この後のセリフに字幕で表示された(当時の)のは「ケツの穴め!」だったのである!!
コレは当時全くもって「???」状態となった。
その後も名画座での数回の鑑賞を繰り返しても、何度観たって理解不能、というか意味不明で分からない。
まさか親に聞く訳にも行かず(映画の内容を知ったら仰天するだろうに….)、一緒に観たりした友人に聞いたって「ははは、さあ何でだろうね…」。
ある意味この件が切っ掛けとというか強い動機となって、“原語音声”と“アメリカ俗語(所謂スラング)”に強く興味を惹かれていくこととなったのであり、そうした意味に於いてもこの映画の存在は計り知れないものとなった。
しかし、当時の情報や、「その音声を繰り返し聴く」機会が得られない当時の周囲環境からは、この解決は困難を極めた。
何年か経過したのちに、偶然書店で見つけた「アメリカ俗語辞典」を得たことによってこの件を含めた、それまで多くの「謎」=疑問だったことへの殆どの解答を得る事が叶ったのである。
この本を手に入れた時の喜びと感動は計り知れず、そもそもその当時「このような本が存在している」事を知りえた事だけで驚愕だった。(当然、未だ手元にある愛書)
但し、事は単純では無い。
先ずは、その音声を拾う事は叶わず、聴けたとしてもヒアリングで聴き取る自信もなかったから、やり方として考えられたのが「ケツの穴め」からの逆算的手法。
この言葉を英語に直したとしたら?
単純にはAss=お尻、Hole=穴となり、ここから「Asshole」という表現がアメリカ人が大好きな常套句なのだという事が浮かび上がってくる。
これを前述のスラング辞典で引いてみると…..
やっと辿り着いた!、のであった。
その後の時代には、もっと酷い“F言葉”が登場して頻発されるようになるので、今となってはこのような「ばか野郎、くそったれ」表現は可愛いものとなってしまった。
今となっては「なんだよ、そんな事か。知ってるよ。」との声が聞こえてくるレベルの事であっても、当時は周囲の誰もそんな事(アメリカ大衆文化)に関心すら持たなかった時代だった中での事である。
つくづく、「自分が好きな事を貫くのは楽しい」し、そこまで入れ込んだという事は、自己満足と共に忘れ得ない。
だが、「この映画の(私だけへの)宿題」はまだ終わって居なかった。
それは前述のサントラLPのせいである。それも国内盤だった事から更に深みに…..
単純に言うと、
「まずジャケット・デザインが違う(2種類存在している)、それは何故か?」
「1番気に入ったThe BandのThe Weightがオリジナルじゃ無い」
「ライナーにもあるように、未収録曲がある」
「曲目表記と実際の収録内容の一致に疑問を感じる(納得出来ない)箇所が存在する」
と言う事。
多分、これら(全て)はほぼ誰にも分からないと思う、と言うかそれ以前に気付かずとか、そもそもそこまで思い入れも関心も無かろうかと。
最終的には、それこそ長年の執念で上記全ての解決を図る事が叶ったが、まさに困難を極め、ほとんど不可能かとも思いながら、やっと10数年前位だったかに辿り着くことができた。
これについても、まあはっきりと、自己満足の世界だろう。
こうした経験からは、ある意味「気長に、(焦らず)時の運に任せる」も大事だと悟った。
が、あとは「そこまで自身の一心を貫き続ける気が(持続力も)あるか」が最重要だと言う事も。
別件として個人的見解と前置きした上で、極論を承知で敢えて「長年映画を観て続けて来たからこそ感じた、時系列的な映画の(登場の歴史の)流れを強く意識した上」でいうなら、
この映画の続編的(流れを継承する)繋がりが感じられた作品は『悪魔のいけにえ』だった。
『イージーライダー』のラストで”突然に(それまでと)何の脈絡もなく不意打ちを喰らったように訪れる最後”について(鑑賞当時の)受けた、あまりにも唐突で理不尽な主人公たちの末路の衝撃。
それは、このラスト(道中でも)が象徴する「アメリカ南部(田舎町)の闇」部分を引き継いで、その部分(テーマ)のみをクローズアップする形で描いて見せた、延長線上にある事を感じえたからである。
映画史においては、どの作品のどの部分が継承されていってるのか考えてみるのは面白い。
参考までに続編ネタも3点ほど。
一つは日本ローカルで、昭和の名画座全盛時代に某所で新聞などの上映時間案内欄に「続イージーライダー」のような表記が出てて事があり実際に確かめると「ファイブ・イージー・ピーセス」だったという顛末。
もう一つは、制作主演両氏による制作後記的な本で明かされている続編構想。
ラストシーンから続いて、瀕死の二人の元に雷鳴と共にバイク跨って天国から“ジョージ・ハンセン”が「しっかりしろ」とばかり降臨するという、無茶苦茶な展開。
ホッパー氏の打診に、ニコルソン氏が「それムリ」とばかりに笑って却下と相成り、当然ボツに(既にニコルソン氏は超売れっ子だった頃だし)。
最後は実在する「2」。
実は今作は既に“パブリック.・ドメイン”扱いなので、権利者不在なので許諾なく誰でも制作可能状態の作品。
それで実際に勝手に続編名乗って作っちゃって人が居る。
取り敢えず、酷いらしいので、未鑑賞です。(Aなど輸入盤で買えます)。
追加
上記のような経験を踏まえた上でという前提で、
蛇足ながら、「観る作品を選ぶ」際のことについて、思う事を一言書いてみいと思ったので、以下に。
(読みたく無い人は、この先は読まないのが良いです。)
その時代にネットどころかビデオも存在せず、TV放映もずっと後になってからだから、視聴方法は劇場のみ。
従って「自らの(強い)意思」無くして、映画を観る事は基本あり得ず、「ちょっと時間あるから何か観ようか」なレベルでの鑑賞という選択は無いと思い浮かべて欲しい。
更にその時代には“映画人口”というのはそれ程多いものでは無く「映画好きの人」の為であったと思って欲しい。
要するに、現在のように(猫も杓子も状態な)まるでTVのような「万人のもの」などでは無かった。
そういう時代に作られた作品であるという、歴史的背景を完全無視して「名作なんじゃないのかよ〜」っていうの聞くと、何だかなぁと思わざるを得ない。
極端に何でもかんでもそうせよなどとは言わないが、音楽でも映画でも、先にコレがあって、それでその次にはコレが登場してみたいに、時系列を意識して(鑑賞後にでも)みると、時代を知るという事にも繋り、「見えなかったモノが見えてくる」事によって面白さは倍増すると思う。
「そんな事しなきゃ面白く無いならいいよ」方は、『名作』などという言葉に釣られるだけで観る事は、今後慎むべき極力止めておくべきだとの忠告を差し上げたい。
時間の無駄だから。
基準にしている「自分の生きる時代」の範囲の、身の丈にあった作品に留めておくのが無難でしょう。
少なくとも、様々なジャンルの映画がある中で、自身が時代毎に違う社会性についての知識や興味も大して無いのに、わざわざ「当時のリアルタイムな背景が題材」だった作品を、その背景などに何らの造詣も無い状態で、中途半端に娯楽対象に選ぶ行為自体の方が、ダメ出しされるべきと思う。
何でも(名作と付くや)観りゃいいってもんじゃないし、合わないの選んだ自分を置いといて、作品への文句はスジ違いと思う。
そういう人だと、食べ物でも服でも何についてもその調子なんじゃないかと思えてきてしまいます。
「余計なお世話」でしたね…..
ぼーーんちゅびーわあああい🎶
ステッペンウルフの主題歌「ワイルドでいこう!」が流れ出し、手が疲れそうなチョッパーとハーレーにまたがったワイルドな野郎どもが、果てーしなく広いアメリカの道を吹かして吹かして吹かしまくる‼️もちろん道中ケンカ、セックス、ドラッグ、そしてロッケンロールの大狂騒曲‼️ストーリーはあってないようなもの‼️20世紀に実在した、いや今も存在するボンクラヒッピーどもを鑑賞するには最適の一本‼️加えてアメリカン・ニューシネマの名作として、いやアメリカン・ニューシネマを定義する一本として、ヒッピーどもの記録映像集としてもこれ一本でOK‼️デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンが頭角を現した作品としても映画史に残ると思いますが、ピーター・フォンダとしては、私はアメリカン・ニューシネマな西部劇「さすらいのカウボーイ」の方が好みです‼️
ぼーーんちゅびーわあああい🎶
興味深い作品でした
BSプレミアムの録画をようやく鑑賞。
ヘンリーさん、ジェーンさんの映画は観たことあったが、ピーターさんのは観たことないので、この映画が気になっていた。それにデニス・ホッパーさんも出ていると知って、さらに興味が湧いていた。デニスさんは監督もやってたのは知らなかった。
ピーターさんの方は、頭が良さそうな、ハイレベルの大学中退という感じ、デニスさんの方は、感覚と感情で生きてる感じで、主演ふたりは分かりやすいキャラクターではあるが、最後まで素性は不明。まぁ素性はどうでもよくて、両極端な人物によって、アメリカの若者全体を代表させたという気がする。社会の型にはまらない、はまりたくない若者、なのだけれど、バイクには星条旗、キャプテンアメリカという呼び名など、USAという国には愛着がある・・・USAならもっと自由に生きられるはず、といったところだろうか。保守勢力の力が強すぎて生きづらい、もっと自由を!なのだが、最後は保守勢力に殺されてしまう・・・保守派に対しアグレッシブだが、これがアメリカン ニューシネマか。
前半、まばたきするような場面切り替えが気になった。途中からなくなったが、どういう効果を狙ったのかよく分からず。
ヒッピーのコミュニティのところで、メンバーの胸から上をひとりずつ見せていく場面があるが、それぞれ無表情で左か右の斜めを向いており、まるで肖像画で非常に印象的だった。意図的にポーズをしていたに違いない。何を狙ったのか真意は不明だが、自由を求めて来たのは良いが、食べる物もままならない、といって帰ることもできない立ち往生の状況という感じが伝わってきた。
このレビューで入れる印象の選択肢には当てはまるものがない。
自由の国アメリカは幻想
1969年公開のアメリカ映画。
監督はデニス・ホッパー。
製作・ピーター・フォンダ。
デニス・ホッパーは脚本にも参加。
製作費はたったの34万ドル。
興行収入は全世界で6千万ドル。
《ストーリー》
コカインで儲けた大金をオートバイのタンクに隠して、アメリカ大陸を
大型バイクで気ままに旅する2人のライダーの運命を、
広大なアメリカの風景と背景に描く。
一世を風靡した映画で、映画界をアッと言わせる新しさがあった。
ヒッピー文化が盛んだった当時のアメリカ。
ヒッピーのコミューンも登場する。
なんといっても2人の乗る大型バイク。
キャプテンアメリカとのあだ名のワイアット(デニス・ホッパー)が
乗るのは1200ccのハーレーダビッドソン。
相棒のビリー(ピーター・フォーク)の愛車はチョッパー。
ビリーは星条旗柄のヘルメットと皮のジャンパーには同じく星条旗が
縫い付けられている。
このビリーの姿は余りにも刺激的だ。
ラストを言えばワイアットとビリーは運転中に
向かいから来たジープから
ライフルで狙撃されて呆気なく殺されてしまう。
この国は「殺しも自由だ」
ワイアットは、言っていたっけ・・・
邪魔者は虫ケラのように排除する。
目障りだから?
長髪だから?
なぜ、目障り、とか、
長髪だとか?
自由だから?
の理由で殺されなければならなかったのか?
(ヒッピーが嫌われる背景は描かれないが、色々あっただろう?)
カリフォルニアからルイジアナ州ニューオリンズの旅は、
モーテルに泊まるのも断られた、レストランでも無視され、
野宿やヒッピーのコロニーで雑魚寝する。
シャワーも浴びないのに子綺麗な2人。
アメリカ大陸を気持ち良さげに走る彼らをと並走するもように
ステッペンウルフやジミー・ヘンドリックス、
ロジャー・マッギンの曲がいい感じに流れる。
ラストの主題歌「ワイルドでいこう」(BORN TO BE WILD)は、
ステッペンウルフの作曲。
ボブ・ディランが楽曲の提供を断ったという。
額に汗して働く労働者の側に立つボブ・ディラン。
コカイン密売で自由を謳歌する男たちの映画に加担しなかったのは
英断!!
さすがに筋は曲げない男である。
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