青髭
1963年製作/120分/フランス・イタリア合作
原題または英題:Landru
スタッフ・キャスト
- 監督
- クロード・シャブロル
- 脚本
- フランソワーズ・サガン
- 撮影
- ジャン・ラビエ
- 音楽
- ピエール・ジャンセン
1963年製作/120分/フランス・イタリア合作
原題または英題:Landru
数日前までノーチェックだったのだが、新文芸坐のシネマテークでクロード・シャブロルの特集上映をやっていることに気づき、慌てて(日中は長野の聖高原まで仏像の御開帳に出向いていたのに飛んで帰って)レイトショーで観てきた。
『女鹿』『肉屋』『不貞の女』の感想でも書いたが、僕は2011年のシャブロル回顧上映に参加していて、20本以上の作品を一気に観ている。ただその際も『青髭』はユーロ、日仏どちらのラインナップにも入っておらず、個人的にはずっと観る機会のなかった映画の一本だった。
強行軍すぎて、中盤すこし寝落ちしてしまったけど、観られてとてもよかった。
シャブロルって、こういう戯作調の映画も撮る人だったんだ!!
というか、映画を観ている間は知らなくて、帰ってからネットサーフィンをして知ったきわめて重大な情報がいくつかある。
●本作の主人公アンリ・デジレ・ランドリュは「実在の人物」である。主に新聞広告を通じて出会った孤独な戦争未亡人たちを標的にし、誘惑し、資産を騙し、その後殺害し、遺体をストーブで焼却して処分していたとされる。警察の捜査によれば、1914年から19年の5年間で少なくとも283人の女性とやり取りをしていて、そのうち72人は発見されなかった。1919年にアパートで逮捕されたとき、彼は24歳の愛人フェルナンド・セグレと同居していた。裁判は一大センセーションとなり劇場化した。結局、状況証拠と彼自身がつけていた詳細なノートに基づいて、10人の女性と1人の少年の殺人の罪で有罪になり、1922年にギロチンで処刑された。
●ランドリュの事件に着想を得て、チャーリー・チャップリンは1947年に『殺人狂時代』を製作した(最初に企画に誘ったのはオーソン・ウェルズ)。この映画はアメリカではチャップリンの共産主義者としての言動や女性スキャンダルもあってかなり手ひどい批評を食らったが、フランスでは大ヒットを記録し260万人の観客を集めた。
●『青髭』の脚本はあのフランソワーズ・サガン。
●『青髭』は残念ながら興行的に大失敗を記録し、資金面で身動きのとれなくなったシャブロルはこの後、スパイ・アクションなど、次々と雇われ監督の仕事を受けざるを得なくなった。
僕は、こういう女たらしでモテ男の殺人鬼を描くのに、なんでつるっ禿でもじゃもじゃ髭の喜劇役者みたいなオッサンが主役なんだろう? と本当に不思議に思いながら観ていたのだが、要するに、実在のランドリュに寄せてのあの風貌だったってことね。
そのほかにも、なんとなく違和感のあった展開や台詞(完全なフィクションのドラマだとあまりしないようなつなぎや発言)の大半が、実は「事実」に基づいて描かれていることがわかって、いろいろと腑に落ちた次第。たとえば、これだけ犯人が誰かはっきりわかっているはずの映画で、ここまで被告側が「冤罪」を主張する必然性があるのか? みたいな部分でも、本人が実際にそう言ってたのなら仕方がない(フランソワーズ・サガンによる脚本は、意外なくらいに実際のランドリュの事件の詳細をきちんと追っている)。
あと、「なにこれ『殺人狂時代』のパロディ映画なのかな?」とか勝手に当て推量しながら観ていたわけだが、なんのことはない、「同じ事件を元ネタにした2本の映画」だったわけだ。
とはいえ、やたらブラックアウトによるつなぎが活用されたり、第一次世界大戦のフッテージフィルムが挿入されたり、暴力シーンを一切用いなかったり、遺体の処理を別荘の煙突からの一条の煙で表現したりと、『殺人狂時代』のひそみに倣っている部分は多く、シャブロルがリメイク映画でも作っているつもりで本作に臨んでいるのは明らかだ(『殺人狂時代』の場合は、ブラックアウトよりディゾルブでつないでいるシーンが多いことを考えると、シャブロルがより古い時代のサイレント映画を意識している可能性も高い)。
ノリとしては、前半は喜劇ベース。
殺人鬼としての不気味さや狂気よりも、意外なくらいの彼の「愛嬌」と「人好きのする雰囲気」と「モテ男ぶり」が強調される。
純粋な金銭目的のもとに、淡々と寡婦殺しを継続する「お仕事殺人鬼」としての日常がコミカルに表現されていて、なかなかにシニカルだ。
逮捕後は、壮大な法廷劇へと物語は変貌する。そこでも笑いの要素はちりばめられているが、どちらかというとシリアスな空気が強くなる。
フランスの法廷物というと最近では『落下の解剖学』が想起されるが、本作においても、弁護側・検察側ともあれと同じくらいに恣意的な法廷戦略が顕著で、個人の弁論術に依拠した「感情に訴える」弁舌が目立つ。フランスの法廷ってまあまあやりたい放題だなあ、という想いを改めて感じざるを得ない。
― ― ― ―
●冒頭は、完全なシンメトリー構図の家族のディナー風景から入って、主人公ランドリュの後頭部にぐぐーっとトラックアップしていくショット。ある意味、これが「喜劇」であることを示す記号めいたショットといえるだろう。
と同時に、フランスでは誰もが知っている有名な殺人鬼なわけで、「こんなつるっ禿のご汚いオヤジだったのにあんなにモテたの、なんでだろうね??」といった、監督からの問いかけの意味合いもあるのかもしれない。
主演のシャルル・デネって他の映画でこんなつるっ禿じゃなかったよね? 今回だけ剃って寄せてるっぽいけど、なんだか微妙に顔がチャールズ・マンソンに似ていて、まあまあ殺人鬼ヅラかも(笑)。
ていうか、フランス語でつるっ禿で髭がとんがっててダミ声の演劇調でしゃべっているのを観ていると、個人的にはどうしても探偵エルキュール・ポアロを思い出さざるを得ない。シャブロルのなかでは、ポアロのイメージってどこかに意識する部分はあったのかな?
●第一次世界大戦のモノクロのフッテージフィルムが挿入されたあと、オープニングクレジット。BGMはなぜかロッシーニの「チェネレントラ」のアリア「悲しみと涙のうちに生まれ」。シンデレラを元ネタにしたオペラだが、沼に浮かんでいるのは女性のドレスと靴で、今後の展開を想起させる。あえてバルトークやデュカスの遺した青ひげがらみのオペラの曲は使ってこないんだね(笑)。ロッシーニって選曲がまた、古い映画のクレジットを模倣している感じがする。
●クレジットが終わると、ランドリュ親子に古物を渡す相手の夫人が歌いながら登場。歌っているのは「魅惑のワルツ」(『昼下がりの情事』のテーマ曲ですね)。この曲はそのまま「最初のカモ」であるミシェル・モルガンが登場するときに、横でやってるブラバンの演奏に引き継がれる。
●「三人目のカモ」であるダニエル・ダリューと観に行くオペラは、プッチーニの「ボエーム」で、聴いているのはアリア「私はミミ」。この曲は、彼女が別荘に連れ込まれて殺される直前の、嘲弄するようなストップモーションの背後でも鳴り響いている(笑)。ミシェル・モルガンが殺される際のストップモーションでかかってる曲(アデュー、アデューww)は僕にはちょっとわからなかった。
往年の大女優であるミシェル・モルガンやダニエル・ダリューに殺される寡婦の役を割り振り(ちょっとやっていることがビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』っぽい)、さんざんオペラのアリアやウインナ・ワルツをかけて「彼女たちが一番輝いていた時代の映画を想起させる」ようなシャブロルのやり口は、かなり残酷だし意地悪な気がする。
●おばさまたちが火葬に付されるたびに煙突から黒い煙が延びて、引退して隣家の別荘で暮らしているらしいイギリス人の老夫婦が「なんか臭いわね」と英語でぼやくというネタが毎回天丼で繰り返される。この煙突からの黒い煙って、コンクラーベでの「煙での結果発表」となにかつながりはないのかな? あと、いくつかの映画で煙突からたなびく煙は「ナチスの絶滅収容所」の記号として用いられていたけど、この映画ではどうだろうか。
●女性との甘いひと時→煙突の煙というモンタージュは、繰り返されるたびに簡略化され、劣化し、だんだんとおざなりになっていく(笑)。あたかも、ルーティーンの繰り返しに飽きていくランドリュの心情を反映するかのように。そのなかで、ヨハン・シュトラウスの『ウィーンの森の物語』にのって老女とワルツを踊るシーンと、そのあとアップになるストーブ(横の灰取り器の位置が変わることで、事前・事後の時間の経過を表す)のモンタージュはなかなか気が利いていた。
●のちにクロード・シャブロルの妻になり、数々の映画で主役を張ることになるステファーヌ・オードランが、愛人フェルナンド・セグレ役で登場(この時期のオードランはシャブロルの婚約者だったらしい)。登場シーンでステファーヌが歌っているのは、サン=サーンスの「サムソンとデリラ」のアリア「私の心はあなたの声に開く」(後でもう一回同じオペラの二重唱が出てくる)。二人で戯れに歌っているのはプッチーニの「トスカ」のアリア「星は光りぬ」(フランス語版? なぜか警察署の刑事の歌に引き継がれる)。なぜこの映画はここまでオペラのアリア推しなのか?
●第一次世界大戦の終結に、どこか浮かない顔のランドリュ。彼のやっていたことは結局のところ、戦時下の「隙間商売」だったわけで、これから大量の兵士が凱旋すれば、当然「戦争に行かなかった男」の希少性は失われることになる。
●終盤は、完全に法廷物となって、前半よりはシリアスに手に汗握る弁論が展開される。まあこれだけ証拠があれば、検察側の公判維持は余裕だとは思うのだが、この展開が待っているからこそ「実際にランドリュが犠牲者の女性を殺すシーン」や「死体をバラバラにして焼却炉で燃やすシーン」は一切オミットされていたんだなあ、と。
●ラストの見物客たちが高い所で一列に並んでいるシーンは、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を意識したものか?
ゴツっというアレの音にぞくりとする。
●ちなみに、INDbのトリビアに書いてあったのだが、ステファーヌ・オードランが演じていたフェルナンド・セグレって、映画公開時にまだ存命だったそうで(その後40年間レバノンで教師をやっていたらしい)、自分の許可なく本名で映画内に登場させたことに激怒して裁判を起こし、シャブロルの映画会社から1万フランをゲットしたとのこと(知財法上、フランスではとても有名な裁判事例らしい)。その後、68年に母親とランドリュの写真を枕元に置いて自殺した。遺書には「私はまだ彼を愛しているが、この苦しみには耐えられない」と書かれていたとされる。彼女は最後までランドリュの無実を信じていたという。