愛と殺意

劇場公開日:2026年8月15日

解説・あらすじ

イタリアが誇る巨匠ミケランジェロ・アントニオーニが1950年に発表した長編デビュー作。資本家の妻とその元恋人が織りなす愛憎劇をノワール調に描いたドラマ。

ミラノの資本家エンリコは、美しい妻パオラの過去の素行を探偵に調査させる。皮肉にも、その調査がきっかけとなってパオラはかつての恋人グイドと再会する。愛のない結婚生活に飽きていた彼女は、グイドとの関係に情熱を取り戻していく。夫による調査が進むなか、2人は次第に危険な関係へと足を踏み入れていく。

パオラを演じるのは、「リュミエール」「ラスト・ハーレム」などに出演したミラノ出身の女優ルチア・ボゼー。元恋人グイド役を、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「夏の嵐」などルキノ・ビスコンティ作品への出演で知られるマッシモ・ジロッティが務めた。現代人の孤独や男女の愛の不毛を見つめ続けたアントニオーニが、その後の作品にも通じる人間関係の疎外を、早くも描き出した一作。日本では2026年8月の特集上映「ミケランジェロ・アントニオーニ レトロスペクティヴ 愛の不毛、彷徨える魂」にて、4K修復版で劇場初公開。

1950年製作/103分/イタリア
原題または英題:Cronaca di un amore
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2026年8月15日

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映画レビュー

3.0 フィルム・ノワールの形をとった長篇第一作。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』への挑戦状!

2026年8月16日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

正直、面白かったかと言われると、
あんまり面白くなかったけど(笑)、
アントニオーニ節の源流というべきものが、
長篇第一作の時点ですでにわかりやすく
可視化されていたのには、少し胸がどきどきした。

それ以上に、衝撃的だったことがある。
この映画ってどこからどう見ても、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(43)が元ネタだよね。夫婦の立ち位置が労働者階級かブルジョアの富裕層かって部分が違うだけで、あとはだいたいおんなじ話だもの。
というか、アントニオーニが「俺なら同じ素材を使ってどう撮るか」っていうことに取り組んだ、若い監督による「挑戦」の映画といったほうがいいかもしれない。わざわざ「同じ主演俳優(マッシモ・ジロッティ)」まで連れてきて、そこを誰にでもわかるように敢えて処理しているのには、ちょっとびっくりした。
「“俺”の考えた『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を観てやってくれよ!!」
これは、そういう映画だ。

ということは、本作は紛うことなき「フィルム・ノワール」の延長にある映画とも言えるわけだ。ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、時期的にはアメリカ「フィルム・ノワール」の映画群に先鞭を付けた形になる作品だが、有名ノワール小説(ジェームズ・M・ケインの1934年の同名作)の(無断でのw)映画化である以上、少なくとも「ノワール映画」と呼ぶことは可能だ。そして、それをもろパクリしたうえ、アメリカ犯罪映画のテイストも移入してみせた『愛と殺意』もまた、純度高めの「フィルム・ノワール」といって良い。

ゴダールがフランス「ヌーヴェルヴァーグ」において、アメリカのフィルム・ノワールの作劇と文法をそのまま生かして『勝手にしやがれ』を撮ったのが、1960年。
それに先駆けること10年以上前。
イタリアのネオリアリズモは、すでにノワール原作(およびフィルム・ノワール)と出会い、吸収し、その映画運動の糧としていたわけだ。

前に『勝手にしやがれ』のレビューでも同じことをやってみたのだが、
試みに、Wikiに載っているアメリカ40年代「フィルム・ノワール」の「特徴」とされるものを、まずはここにそのまま転載して貼ってみよう。

●舞台設定(現代の大都市)
●視覚的スタイル(コントラストを強め陰影を強調した画面)
●テーマ(犯罪、詐欺、離別、精神疾患など)
●登場人物の性格(ハードボイルドな男性主人公、謎めいた女性)
●物語手法(時系列を複雑に行き来する構成、説明省略の多用など)
●全体的なムード(社会に対するシニシズムや憎悪、閉塞感)

……どうだろうか?
ほぼ『愛と殺意』に当てはまるテイストだと思いませんか?

「ミラノ」という大都市を舞台として、夜をメインに暗く陰影に富んだ画面が続く。どこか神経症的なファム・ファタル(運命の女)が出てきて、愛人に対して夫殺しをしきりに唆す。語り口としては人物描写が抑制的で、過去の捜査と今の不倫話が交錯し、話の筋立てがわかりにくい。底層を成すテーマは、ブルジョワジー批判と「愛の不毛」。
ね? やっていることは、本当にフィルム・ノワールの映画群とそう変わらない。

ヨーロッパ全土を巻き込んだ第二次世界大戦において、いったん生じた映画的空白。
そんななか、若い世代の欧州の映画作家たちが目をつけたのが、戦時中の資金難と技術的進歩によって生まれたアメリカの「夜の映画」群だった(フィルム・ノワールの成立には、お金がないから街でロケをするしかなかった、このころフィルムの感度が格段に上がったので夜のシーンが撮れるようになった、昼に撮ると高いので夜の街で犯罪映画を撮った、無名の俳優を使ってゲリラ的に撮るので自由度が高かった、、、、といった諸背景がある)。
B級犯罪映画でありながら、自由な作家性と斬新な語り口を手に入れた「フィルム・ノワール」を観て、ヨーロッパの映画作家たちは憧れを抱き、その精神の「移入」を試みた。
それが、アントニオーニの『愛と殺意』であり、ゴダールの『勝手にしやがれ』だった、ということだ。アントニオーニの場合は、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』というイタリアにおける「祖型」(ネオリアリズモの理念に基づいて製作されたノワール映画)も存在し、本作ではその自分なりの「魔改造」に挑んだ、ということになる。

― ― ― ―

映画終了時に講義をされた大学の先生(元朝日記者)がおっしゃっていたことで特に印象的だったのが、1940年代のネオリアリズモ映画が扱っていたのはとにかく「貧困層」の人生と社会的問題だったけど、1950年代になると若い監督たちが「貧困層」以外の人々の生活を撮るようになった、という話だった。
ロッセリーニの『無防備都市』『戦火のかなた』『ドイツ零年』、ヴィットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』『靴みがき』、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『揺れる大地』……。いずれも貧困層の底辺を這いずり回るような生活ぶりを活写して、イタリアの抱える問題を提起してみせた映画群だった。
だが1950年になって、アントニオーニは『愛と殺意』でブルジョワジーを描き、フェリーニは『寄席の脚光』で芸能の世界を描いた。いずれも、のちの自らの作品群の骨になるようなとびきりの個性を最初から見せつけるような作りで、社会的告発性よりも「個」の内面描写や趣味性を前面に押し出した内容になっている。

ここで注目したいのは、「ノワール小説」の世界でも同様の転換が戦前・戦後の区切りで起こっていたという事実だ。
戦前のノワール小説は、とにかく貧困層の悲哀と社会的抑圧を描いた。
主人公たちが引き起こす犯罪は貧困ゆえの悲劇として描かれ、貧しい犯罪者が社会からはみ出す原因は常に「社会」の側にあるとされた。
だが戦後になると、空前の好景気がアメリカを覆い、「ブルジョワジーと貧困層」という二項対立が必ずしも共感されなくなってくる。するとノワール小説に登場する犯罪者のキャラクターもまた様変わりを始める。貧困と無知ゆえに銀行強盗に走る若き無法者ではなく、生まれついての犯罪者的資質を持ったサイコ的な悪党が登場し、彼の歪んだ内面や価値観、それによって引き起こされる異様な状況などを好んで描くようになっていくのだ(その代表的作家がジム・トンプスンとデイヴィッド・グーディスである)。
貧困層へのシンパシーを示して社会的告発を行う戦前の作品から、個人の内面に分け入ってその犯罪者気質を描写する戦後の作品へ。
それはまさにイタリア・ネオリアリズモ映画においても、アメリアのノワール小説においても時代の変化に応じて生じた大転換であった。
『愛と殺意』のヒロイン、パオラは、観客がシンパシーをもてるような共感性の強いキャラとしてはつくられていない。むしろ観客は、彼女の我欲の強さと身勝手さにムカつきながら、その人格障害的な圧と底知れぬ狂気に触れて「ビビる」はずだ。その「ビビる」感覚を愉しむことこそがこの映画を観るスタンス、ということになる。

このことは、改めて次作『敗北者たち』のレビューにおいて詳細に触れることになろう。

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●Fincineのロゴとともに鳴り響く、薄気味悪いテルミンの音楽(笑)。

●メインの楽曲はジョヴァンニ・フスコによるもので、彼は生涯アントニオーニの映画音楽を担当し続けた。サックスとピアノによる少し前衛っぽい印象的な曲で、サックスは有名なクラシック・サクソフォーン奏者、マルセル・ミュールが担当している。「愛人による夫殺し」×モダン・ジャズを予感させる楽曲という意味では、『死刑台のエレベーター』(58)の先駆的存在ともいえまいか(あとでエレベーターもキーアイテムとしてさんざん出てくるしw)。

●解説の大学教授いわく、冒頭にうつるミラノ大聖堂を観ただけで、イタリア人であれば誰しもが「この映画の舞台はミラノなんだ」と気づくとのこと。街中を探偵事務所の社員が事務所に向かって進んでいく(画面がレストアされたおかげであれが探偵だと気づいた、と大学教授)。

●探偵は、大富豪の若妻の過去を探るべく、彼女の故郷フェラーラへと調査に赴く。解説の大学教授いわく、フェラーラで壁打ちをしている男は、フェラーラで生まれ育ち、テニスを生涯愛したアントニオーニ自身の姿が投影されているらしい。またミラノに比べてフェラーラは極端なド田舎で、この映画の「昏さ」はフェラーラが担っているとのこと。要するに、ど田舎から大都会に上京して玉の輿に乗った成り上がり女と、今も都会の片隅で自動車を売って暮らす貧乏男の物語ということだ。

●パオラ初登場シーンの、白いファーの「あん巻」みたいなケッタイなファッションはインパクトがある。驕奢の象徴のような服。その後もパオラは出てくるたびに、珍奇な最先端モードの装いを見せる。鶏みたいなとさかのある帽子には仰天した。

●前半はとにかく地味な調査の描写と必要性の薄そうなシーンが続いて、しっかり作り込まれてはいるがいささか退屈な印象。しょうじき、何度も寝落ちしかけた。後半、二人が不倫をはじめてからはそこそこ盛り上がるが、善良な旦那を裏切って目先の不倫にうつつを抜かす妻と、自分の不甲斐なさに押しつぶされて何かと当たり散らす間男にうんざりする。挙句、勝手な都合で殺人計画を練り始めるんだから、こいつらマジでどうしようもない。

●探偵事務所の窓に映る人影、フェラーラの広い通りに立つ探偵の黒いバックショット、エレベーターホールでの階段と昇降機が織りなす影など、随所にアントニオーニらしい映像美学は感じられるが、後年の作品に見られるような絶対的な様式美にまでは至っていない。徹底した長回しもすでに見られるものの、後年感じられる「これ見よがしな作家性」としての長回し、といった印象は与えない。
解説の大学教授によれば、アントニオーニ特有の人影の少ないイタリアの街の虚無感、幻想性、孤独感というのは、イタリアの「形而上絵画」の巨匠ジョルジョ・デ・キリコを参照したものであり、アメリカの画家エドワード・ホッパーにも通じるものだとのこと。なるほど、そしてその舞台装置的にイタリアの街を捉えるやり方は、われらがダリオ・アルジェントにも引き継がれていくわけですね!

●旦那が車の試乗を終えて帰ってくるときに、あやうく犬を轢きそうになって事故りかけるシーンって、あれ特撮なしでガチで撮ったんだよね? こっわww この映画ではしきりに「車の無謀運転(高速運転)」が描かれると同時に、やたらと「犬の散歩」や「放し飼い(野良)の犬」がモチーフとして視界の片隅に登場して、ラストの伏線として不安をあおってくる。最終盤で、しきりに複数の犬が鳴いている声をわざわざ挿入している点にも注目。

●終盤の展開に関しては、ちょっとどうかな、と思う部分もある。解説の大学教授も、夫はあんなことするキャラクターじゃないんじゃないか? ミステリーとして綺麗に閉じるつもりがアントニオーニ自身にあまりなかったのでは? みたいなことを言っていた。個人的にもいろいろ同感で、殺人計画自体杜撰極まりないし、決行直前にやるとは思えないような醜い言い争いのシーンがある(観客も誰にどう感情移入していいのかわからなくなる)し、あの流れでパオラが屋敷を飛び出して外に走り出す理由がよくわからない。オチの付け方も中途半端で、どうとらえていいのか悩むところがある。

●解説の大学教授いわく、ラストシーンのパオラの演技にアントニオーニは納得が行かず(主演女優はこれがほぼデビュー作のケーキ屋の箱入り娘で、演技的にもまだ素人だった)、徹底的にイジメてイジメてイジメ抜いて、精神崩壊を起こすまで追い込んだすえに、あのシーンを撮ったとのこと。あのころの監督ってのはみんな、やることがムゴいね(笑)。

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じゃい

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