はなればなれに(1964)

ALLTIME BEST

劇場公開日:2026年8月7日

解説・あらすじ

ジャン=リュック・ゴダール初期の名作で、アメリカの犯罪小説を原作に、2人の男と1人の女が織り成す恋模様や犯罪計画をコメディタッチに描いたメロドラマ。

冬のパリ。性格は正反対だが親友同士のフランツとアルチュールは、北欧からやってきた美しく奥手なオディールにそろって一目ぼれをする。ある日、オディールの叔母の家に大金が眠っていることを知った3人は、その金を盗み出そうと企むが、計画は二転三転し……。

当時夫婦だった、ゴダール監督とオディール役の女優アンナ・カリーナが設立した製作会社「アヌーシュカ・フィルム」の第1弾作品。音楽は「シェルブールの雨傘」のミシェル・ルグラン。日本では長らく劇場未公開だったが2001年に初公開された。

1964年製作/96分/フランス
原題または英題:Bande à part
配給:ザジフィルムズ
劇場公開日:2026年8月7日

その他の公開日:2001年2月3日(日本初公開)、2017年1月21日、2023年4月29日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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映画レビュー

4.0 B級の犯罪小説はいつの間に

2024年4月19日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

ジャン=リュック・ゴダール監督作品。

「B級の犯罪小説」みたいな映画なのだが、面白い。
映画でどこまで遊べるかを試しているかのよう。

本作は、アルチュールとフランツという二人の小悪党が、英会話教室で出会ったオディールの叔母の家へ強盗に行く話である。

だが肝心の強盗のシークエンスは、終盤の20分ぐらいに雑に行われる。そこにハラハラもなければドキドキもない。むしろ3人が英会話教室をサボって街をふらつく様子が中心に描かれている。

取り留めのない物語である。しかし本作では映画的手法で多くの遊びが仕掛けられている。

まずナレーションである。ナレーションは物語の場面や登場人物の心情説明で用いられる。本作でもそのように使われてはいるのだが、さらに館内に遅れて入場した観客のために物語の要約が語られたり、心情説明を括弧を開くと表現し、ナレーションとは何かというナレーションが行われる。つまり観客に直接語りかけることもされよりメタ的な語りが展開される。

そのことはナレーションとは何かという問いにも向かう。それがアルチュールとオディールがフランツを出し抜いて地下鉄に乗るシーンで象徴的である。このシーンで、オディールは地下鉄の乗客の顔について物悲しいと語る。しかし後に続くナレーションで、乗客の前後の物語が補完される時、私たち鑑賞者の目には違った表情としてその顔が現れてくるのである。このことからナレーション=言語的メッセージが映像イメージの解釈を促すことがよく分かる。つまりナレーションは映像イメージを説明する機能だけでなく、むしろ説明によって映像イメージを生成するのである。

次にイメージの反復である。オディールは英会話教室で詩人エリエットの言葉を引用しながら重要なことを述べる。「すべて新しいことは無意識のうちに伝統的な事柄に基づく」と。つまりそれは英語の先生が言うように、「古典的=現代的」ということである。

本作の序盤にフランツがアルチュールをビリー・ザ・キッドに見立て射殺するくだりがある。このくだりはアルチュールの倒れ方の下手さからつまらない余興だと解釈される。しかしこれは、アルチュールが強盗に入り叔母の知人に射殺される運命を示してもいるのである。このように物語の伏線の機能も果たしているのだが、さらに深い意義がある。そもそもビリー・ザ・キッドとは誰か。調べてみるとアメリカ合衆国・西部開拓時代の特に知られたアウトロー、強盗であり、「盛んに西部劇の題材となり、1つの時代を象徴するアイコンとして、アメリカでは現代でも非常に人気の高い人物である」(wikiより)。つまりここでビリー・ザ・キッドを取り上げるとは、西部劇のイメージを用いているということでもある。西部劇とは『駅馬車』に代表されるようにアメリカ・ハリウッド映画を興隆させた一大ジャンルであり、古典である。このように西部劇=古典的なイメージと、本作のクライム・サスペンス=現代的なイメージを等式的に反復させながら物語を展開させているのである。しかも本作のように新しいと観客が思うものも「無意識のうちに伝統的な事柄に基づ」いていることを私たちに教えているのである。
また本作をクライム・サスペンスというジャンルに収めながら、あえて犯罪の場面を描かず物語を脱臼させることは、古典的なクライム・サスペンスを現代的なクライム・サスペンスに等式化させてもいるのである。

他にも英会話教室にいる美しい女性マルチーヌは、顔のクロースアップがされたり、再びカフェに登場したりと物語に意味ありげな人物である。しかし何も起こらない。彼女は物語の筋には全く関係ないのである。
そしてセリフを重複させる切り替えしショット、音声がオディールのセリフによってかき消されること、突然踊り出すダンスシーン、アルチュールはフランツを「誰かが撃ってきても映画のように奴が俺の身代わりだ」と言っているのにそのようにならないこと、挙げたらきりがない遊びが散りばめられている。

このように現代からみれば古典的と呼ばれる本作も、全く現代的であり面白い。恐るべきジャン=リュック・ゴダール。彼と戯れる映画言語が求められている。

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まぬままおま

4.0 三バカトリオのズッコケ強盗入門

2026年7月30日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

"リンクレーター「ヌーヴェル・ヴァーグ」を鑑賞後に。
画面の中の登場人物たちの運動を見ているだけで楽しい!
車で脚で画面狭しと走り回り、急に無音になり、3人で踊り始め、あっちからこっちに移動してこっちかろあっちに移動して、ルーブル美術館を走り抜け、ハシゴを立てて登って降りてきて、最後は強盗してあっさり死んでしまう、その運動たちを眺めるだけでこんなに楽しいとは。
映画にはモラルなんていらないし、なんなら登場人物の心情などもいらない。
映画とは嘘であり、でたらめなのだから、こんな風に嘘だらけでいいのだ、面白ければ!という圧倒的説得力。"

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あした

1.5 苦手

2026年7月23日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD
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ほうじ茶

4.0 タランティーノが影響を受けまくったというのも納得の、軽妙にして行き当たりばったりな犯罪劇

2026年3月10日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

楽しい

興奮

斬新

クエンティン・タランティーノの映画製作会社「A Band Apart」は本作の原題「Bande à part」にちなんで名付けられたという。

原題を直訳すると「別の仲間」とか「独自のグループ」みたいな意味で、そこから転じて「集団から離れる」とか「独立した行動を取る」みたいなニュアンスで使われる表現らしい。

タランティーノの会社名も「唯一無二の別格の一団」みたいなニュアンスがあるらしい。
AIに聞いたので違ってたらごめんなさい(笑)。

とにかく、自分の映画製作会社の会社名に使っちゃうくらいタランティーノは本作を溺愛しているのである。

自分もタランティーノのファンなのでそのことを知ってはいたのだけど、今まで『はなればなれに』は観たことがなかった。
そして、今回実際に本作を観てみたら、タランティーノがメチャクチャ影響を受けているということがよく分かった!

タランティーノの作品では登場人物たちがダラダラとどうでもいい会話をするというのが有名だけど、本作の登場人物たちも実にどうでもいい会話を続ける。

映画の登場人物というのは基本的には本筋に関係のあることしかしゃべらないものである。
どうでもいい日常会話みたいなものであっても、それは登場人物の性格を表現するためであったりとか、何かしら意味があるのだ。

ところが、本作の登場人物、フランツ(サミー・フレイ)とアルチュール(クロード・ブラッスール)とオディル(アンナ・カリーナ)の三人組の会話は、たまたま読んでいる新聞記事の話とか、本当にどうでもいい感じなのである(笑)。

考えてみれば、我々は家でも職場でも実にどうでもいい会話をしていたりするもので、そういうリアリズムに近いといえば近い。
でも、やっぱり彼らはゴダール作品の登場人物として強烈なオーラを放っているのである。
そういう、どうでもよくないはずの登場人物たちがどうでもいい会話をダラダラと続けるのを見せられて、そのチグハグさにこっちは何とも言えない不思議な気持ちにさせられて、なんかわからんけどカッコいい!と痺れてしまうのである(笑)。

カンヌ映画祭でパルムドールを獲ったタランティーノの『パルプ・フィクション』において、ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソン演じるギャング二人組がどうでもいい会話をダラダラとするシーンがあって、若い頃の自分はそれを観て「すげー!斬新!カッコいい!」と痺れてしまったのだけど、何のことはない、とっくの昔にゴダールがやっていたのである(笑)。

さらに、『はなればなれに』と『パルプ・フィクション』の類似点としてよく指摘されるのがダンスシーンである。

フランツとアルチュールとオディルが立ち寄ったカフェでミシェル・ルグランの音楽をバックに突然踊りだすシーンのカッコ良さ!

こんなのフランス人にしかできないと思われるようなシュールなカッコよさなのだけど、タランティーノはこのシーンへのオマージュ的にジョン・トラボルタとユマ・サーマンにダイナーで踊らせ、こちらも伝説的な名シーンとなった。

他にも、犯罪劇なのに登場人物たちの行動が行き当たりばったりで収拾がつかなくなる感じとか、突然劇中にねじ込まれる不条理とすら言っていいような暴力シーンが強烈な印象を残すところなんかも両者は似ていると言えば似ている。

しかし、何よりもゴダールとタランティーノに共通しているのは、映画でしか表現できないものを追求する、その姿勢にあるのではないかと思う。

二人とも、起承転結みたいなオーソドックスな物語とか、エモーショナルに盛り上がるような物語にはあんまり興味がないように思える。
そういう物語は小説や舞台でも表現可能だからである。

小説や舞台では決して表現できないもの。
映像を撮影し、カットし、繋ぎ合わせていく、映像編集という作業でしか表現できないものを二人とも追求しているような気がする。

タランティーノはまだ物語というものに重きを置いている感じがあるけれど、ゴダール作品は物語を筋道立ったものとして捉えようとすると手の中をすり抜けてしまうような捉えどころのなさがある。
そして観終わったあとには印象的なシーン(場面)やカット(映像の断片)だけが強烈に頭の中に残っているのだ。

物語の面白さよりも映像編集の面白さを追求した男。それが自分にとってのゴダールであり、まさに映画の申し子と言っていいのかも知れない。
同じく映画の申し子みたいなタランティーノがゴダールに心酔するのも納得という気がする。

などと、知ったようなことを書いてしまったけれど自分はゴダール作品を『勝手にしやがれ』と『はなればなれに』と『気狂いピエロ』の三本しか観てなくて、あんまりゴダールのこと知らないのである(笑)。

だから何かというと自分の好きなタランティーノを引っ張りだしてしまったのだけど(笑)、本作はタランティーノ作品、特に『パルプ・フィクション』が好きな人なら観ておいて損はない作品。

…って、天下のゴダールを薦めるのにそんな薦め方があるか(笑)。

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盟吉津堂

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