死ねばいいのにのレビュー・感想・評価
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天使のような悪魔と、悪魔のような悪魔
結局は同じ属性なのだが、境地は別であったのだろうか、その幸せの儘にこの世から送り出した事に、果たして正しかったことなのだろうか?、欺瞞なのだろうか?
わざわざ映画にするよりも、演劇で表現した方が良かったのではと思ったのだが、屋上から見える何でもない東京の景色を観客に見せるにはやはりスクリーンでしか現わせなかったのだろう
何が"幸せ"なのだろうか、本当に分らない
一言言えることは、私に対しての題名なのは確かだ・・・
それでも生きていく
脚本の凄さには拍手。演出は低予算
この映画は一言テーマを挙げるなら「本音と建前から生じる思い込みや勘違い」と感じた。栄子と亜佐美の関わりの話でもあり、それの悲劇について描いたストーリーだが、考察がしがいのある人間模様とテーマ性に拍手を贈りたいと思った。
しかし本映画は変わり映えせず、会話劇がメインの低予算ではあるので美術や構成で目劣りすることがある。それを演技や脚本に振り切った作品と言えよう。
◆本作の脚本が何故素晴らしいのか?(難しいのか)
脚本やストーリー性は非常に高く。栄子、亜佐美周りの人物の関係がリアルでかつ複雑である。どうして素晴らしい(難しい)と感じたか?内容は3点ある。
①栄子は一貫して何故?を求めるから難しい
栄子は亜佐美を殺害した犯人である。栄子は殺人犯にも関わらず亜佐美の周囲に「亜佐美はどんな人でしたか?」と尋ね、何故を繰り返す人物であるが、ここに彼女の思考パターンの癖がある。
彼女は頭の中でロジックを組み立てるのが得意が故に他人への確認作業も多く、確証が取れたからこそロジカルに正論を相手お構いなしに言うキャラだが、この「自分の中でロジックが通れば、正しい」と言う軸がある故に決めつけをしやすい特性もあるのだ。栄子が亜佐美を殺害した理由は亜佐美が述べた「幸せ」に対して彼女は幸せなのは建前で行っているだけ本当は周囲に振り回されて不幸だと思っていると勘違いしてしまい、亜佐美が死を望んでいると咄嗟に絞首して殺害したという内容だ。
実は亜佐美の「幸せ」には「栄子と出会えたことが幸せ」と言う解釈があり、それに気づけなかった栄子が殺害を後悔し、涙を流す。
栄子の罪はロジックを自身の中でまかり通ると思い込んだが故に別の解釈の可能性を自ら閉ざしてしまったことである。
② 亜佐美が分かりにくすぎる
一方亜佐美は一言で「本音と建前の境界が曖昧」なところがある。それが故に部長にも部長が嬉しいならそれでいいと思っていても本望な場合でもあり、我慢している場合とも読み取れる。彼女はそれについて全く説明しない。
亜佐美の難しさは発言しているが、確信を話さない傾向が多く、栄子にきちんと言葉を話していればこんなことにはならないが、亜佐美自身の内面が整理できていないためコミュニケーションにズレを起こしやすい人柄である。
このようなキャラクター性は作中の人物も視聴者も置いてきぼりにするため難しいのである。
③死ねばいいのにには三重の意味がある
亜佐美の周り:お前が死ねば亜佐美が幸せに生きられる。
栄子が亜佐美:幸せなら幸せのまま死ねばいいのに
栄子自身に向けて: 亜佐美の幸せが「栄子と出会えたから幸せ」と言う解釈に気付けず殺害した自分自身に対して死ねばいいのに
◆背景美術構成
やはり低予算映画のため、芝生にテーブルや椅子を載せて見せる演出は飽きさせないためのシーン切り替えだと解釈した。
不器用な愛のお話、かも?
エイコの自閉っぽく相手を問い詰めていく前半の流れと煽りに易々と乗っかる登場人物に疲れかけたけど...
最後の最後に人の目を通していない(もしくはエイコ目線の?)アサミが流れた後、エイコとアサミの穏やかなベランダでのシーンの画が出たあたりがとてもよかった。ベランダの枠がいい感じに2人の境界線を作ってた(気がする)。
エイコは「幸せ」を受け入れられないし、アサミは自分の「不幸」だけは受け入れられなかった。そうしないと、生きていられないから。
アサミを殺した後、アサミの部屋の食器を洗い、ベランダを開け放った時、エイコはあの時の「幸せ」に気づいてしまったのかな?
アサミの関係者からアサミのことを知ることで「幸せ」をわかろうとするけど、やっぱりそれはエイコからすると不幸としか思えなくて、アサミの関係者に不幸の一端を担っていたことを意識させた上で「死ねばいいのに(死ぬもしくは殺す覚悟もないくせに)」とぶつけてアサミの不幸を確認していく。かつ、やっぱりあさみが大切にしてきた相手でもあるため都合の悪いデータは消去して警察から守ってあげる。アサミの幸せ(相手の生活)は守りつつ、不幸も証明しつつで、これはもうエイコがアサミの殺人を通して感じていることの落とし所探しというか、整理で、弁護士さんとのお話はまるで感情の言語化をしていくカウンセリングのよう。
エイコがアサミを殺した人殺しになることで、初めてアサミの不幸は(法的に?)証明されるし、アサミは好きな場所で親友に殺された幸せな人になれたのかな。
もうここまでくると愛のお話かもしれない。
幸せの尺度。
ビルの屋上で何者かに絞殺された鹿島亜佐美と、その亜佐美に関わった人物達へと話を聞きに行く渡来映子の話。
不倫関係にあった部長・山崎、高校時代の先輩で隣人の篠宮佳織、金絡みな恋人、訳あり母へと訪ねる映子と亜佐美の関係と映子の心情は…。
観進めて分かる2人の出会いと関係性、そして亜佐美を殺った犯人、夜の街中で男に暴力を振るわれる亜佐美を助けた映子、その暴力を振るう男は関係を持ってしまった隣人に住む先輩の彼。
理詰め気味で相手を論破してくと思えば結局アナタなの!?な展開、弁護士に語る体で真相は明らかになっていくけど、うんストーリーには惹かれず眠い。
生前の亜佐美と映子のやり取りを見てる映子と弁護士の件辺りから面白くなってきた印象だけど、う~んって感じ。伊東葵さんはどの作品観ても感じるけど彼女の画力は何なんでしょ!?
それぞれの人生を浮かび上がらせる「映子」という鏡
なんといっても主演女優2人のほとんど怪演といっても良い存在感に圧倒される。まず、伊東蒼。「今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は」が素晴らしかったのだが、その延長線上の個性を演じている。そのあたりの表現(被虐的といえばよいのだろうか)は日本の女優は得意な人が多いのだが(奈緒もそっちの役が多い)伊東蒼の演技は突き抜けている。
そして、奈緒。私が観た彼女のベストは「あなたの番です」の尾野ちゃん役か「マイ・ブロークン・マリコ」のマリコ役なのだが、どこか歪んだ妖精というかトリックスターというか常人離れした存在感がある。
この作品は実は二段階に分かれており、前半は映子が亡くなった亜佐美の周辺の人々を訪ね、彼や彼女が亜佐美に対して行った事々を糾弾し、最終的には「死ねばいいのに」と呪いをかけるところが描かれている。
後半は映子が弁護士と話しながら、亜佐美と彼女の間で何があったのか、そして亜佐美が何を望んでいて映子がどのように手助けをしてやったかの状況が描かれる。
映子とそれぞれの登場人物が話す場所は、例えば弁護士とは拘置所のアクリル板越しになるのだが、時として草原に置かれたテーブルに移行する。これは亜佐美の心象風景を表しているのだろう。そもそも、「映子」という名前自体が話をしている相手の心を映し出す特性というか機能を示しているのだと思う。だがその映子にしても、亜佐美を救うことは最終的にはあの形でしかできなかった。それが後悔というか混乱の涙として最後のアップシーンに繋がるのだろう。
まっ全国だが、上映館が少ない理由が分かる…
なんだこれ?
タイマン会話劇なのでとても舞台っぽい
原作履修済みで、京極夏彦さんのほかの著書も大好きです。
本作の原作との相違点は予め承知で鑑賞しました。
〇原作から大きく改変されているわけではなく、話の筋は概ね一緒です。
主人公の性別が男性→女性に変わっていますが、特に違和感はなかったですね。
奈緒さんの演技はとても素晴らしかったと思います。
〇原作はモノローグが非常に多いので、そこは映像化するにあたって会話にするほかなく、そうすると「亜佐美のことを聞いてるのに、自分のことばかり」という色がどんどん薄くなっていきます。
各パートの描き方として、「自分は不幸で大変なんだ」と「亜佐美は不幸だった」のせめぎあいをしている感じで、本作はどっちも伝えるためにどっちも中途半端…という感じを受けました。
なので、奈緒さん演じる主人公の映子も、個人的にはもっと強めに煽る感じのキャラ設定でもよかったんじゃないかな。
〇時系列をなんでいじってきたの?
種明かしの部分が原作では一つの大きな山でもあったと思うんですが、序盤からその辺の情報をぶち込んでくるあたり、観てて、え?もう?って感じでした。
〇母親パートがっつりカット…田畑智子さんがすごいちょっとだけしか出てません。
原作では結構なボリュームを割いていたパートなんですが、フル尺95分ならなぜここを厚くしなかったのか。
120分にしてもいいから、もうちょっときちんと描いて欲しかったなぁ。
〇基本的に1対1の会話劇なので、構成がとても舞台っぽいです。
草っ原セットがよりその辺を際立たせてるようにも思います。
(多分狙いは違うと思いますが)
映画を観ていて「舞台っぽい」って思っちゃうと、あれもこれも舞台っぽいって気になってしまうんで、できればこの辺の演出はもうちょっとうまくやってほしかったです。
〇ラストシーンの意味は何だろう?
憑き物が落ちた的なニュアンスかなと思いましたが、個人的にはちょっと蛇足だったかな…
主人公が亜佐美を理解するという点において、原作よりも映画の方が解像度高く設定したんじゃないかと思います。
なので、ラストシーンがあることで原作にはない意味(主人公の感情的な部分)が付いてしまうのが、少し気になりました。
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総じて、かなり重い作品です。
観た後色々考えさせられるし、あんまり触れられたくない部分をえぐられる様な無いようでもあるので、勢いとか気軽にとかでチョイスすると後悔するかもしれません。
デートにも向かない。
しかし、特にメインキャストのお二人(奈緒さん、伊東蒼さん)の熱演はとても素晴らしかったと思います。
くそでか感情一緒に地獄に落ちましょう系が好きな人は見ていい。
原作既読済。で、もう観る前から原作と大分違うことは覚悟してたので、結構受け入れられたかな〜という感じ。映画オリジナルのシーンは私は結構好き♥️
原作と違くてゲンナリした部分と、でも一方で映画らしくて良かったんじゃない?という部分とに分けて書きます。
原作と大きく違うのは2点。
まず、言わずもがな主人公。誰だこいつは。本当に原作にいたあの得体の知れない怖さのあった超絶フラットマン渡来さんですか?ってくらい人間味がある。原作の肝である会話劇も大分感情が乗っていて嫌な女が相手を煽って自分の亜佐美の解釈を押し付けているようにも見えてしまい、ちょっと胃もたれ。まあ、あんな原作のような男がいても現実味が無いと思われたのかな…?とも。
次に、肝心の会話劇。決めゼリフが出るまでがアホほど早い。え、もう!?とちょっと笑ってしまったし、会話が進んでいくにつれ、徐々に相手が崩れていく過程がこの作品の良いところだと思ってたのでここは残念だった。ただ、映画の時間制限もあるだろうから、脚本家は苦心したんだろうな、母親シーンもバッツリカットして…でも、マンションの管理人のおっちゃんと先輩のエピソードは結構好きだったから入れて欲しかったよ…
良かったのは、冒頭でも挙げたがやはり亜佐美の追加シーン。亜佐美役の人めっちゃ良くなかったですか??現実にもギリギリいそうな、悪いやつじゃないけど好きにもなれない感じのヤバめの女の演技が上手い、惹き込まれる…亜佐美が幸せを噛み締めるシーンで泣いてしまった。で、亜佐美の方の解像度が爆上がりするが故に、主人公が亜佐美に何を感じていたのか、何故あの2人の結末がこんなことになったのかという、原作では最後までよく分からん(故に不気味で良い)部分が、なんとなく想像できるようになってる。ちょっと後味が爽やか?すっきり?という感じ。
最後に、主題歌良かったね!
いそうな方が不快感
ハッピー・マニア
奈緒の新鮮な役柄と尖ったタイトルに惹かれて。
冒頭、草っぱらの“席”に登場人物が座ってる演出は面白い。
これはそれぞれとの対話の際にも挿入されるのだが…
この演出にした最大の理由って、部長が公衆の面前で叫びまくるのを誤魔化すためでは?
それでなくても無闇に切り替えすぎていて、もっと“ここぞ”の時だけでいいのになぁ。
本サイトでは亜佐美について「尋ねる相手によって印象の異なる」とあるが、むしろ逆。
ずっと補強を繰り返されてるように見えた。
3人に話を聞いた後、警察署に乗り込んだところで何故か逮捕。(ホワイトボードにはいなかったよね)
そこからは映子が話を聞かれる立場になる。
主に映子と亜佐美の出会いが描かれ、亜佐美殺害の犯人が映子であることも判明する。
(回想の中にいたまま弁護士とも会話する演出が好きだったのに、最初だけだった)
だがここにも意外性はなく、やはり補強に終始。
弁護士の過去の話とかどーでもいいのだが。
最終的に、亜佐美を通して幸せとか生きる意味とかが描かれてたのかな?
だがそれ故に、個々のエピソードのデティールには特に意味を感じなかった。
後に回され満を持して出た母親はあれだけ?だし。
何より映子について何一つ語られないので、キャラとしての存在意義があまりに薄くて残念。
男性的な見た目や態度に口紅だけ赤く、そこに奈緒のイメージが合わさって魅力的な造形だったのに…
芝居はいいけど、何の話か分からなかった。
部長からのメールがPC宛てって不自然じゃない?
舞台で演ればいいのに。
奈緒の、神がかり的演技
幸せも生きるも死ぬも、他人が決めることではない
■作品情報
京極夏彦の同名ミステリー小説の実写映画化作品で、一人の女性の不可解な死をきっかけに、彼女の周囲にいた人間たちの欺瞞や隠された本音が次々と暴かれていく。監督:金井純一。脚本:喜安浩平。主なキャスト:奈緒、伊東蒼、前原滉、髙橋ひかる、草川拓弥、平原テツ。
■ストーリー
ある日、鹿島亜佐美という一人の若い女性がこの世を去る。彼女の死の理由や、その生前に抱えていた本当の想いを突き止めるため、渡来映子という女性が静かに動き出す。映子は、亜佐美が生前に深く関わっていた人物たち、あるいは彼女の死に何らかの形で影響を与えた関係者たちのもとを次々と訪ねていく。しかし、彼らが口々にする亜佐美への評や思い出は、どれも自分自身の都合や偏見にまみれた断片的なものばかりであった。映子は、彼らが無意識に隠そうとしている本音や、触れられたくない過去の領域に対して、容赦なく鋭い言葉を突きつけていく。人間の身勝手さや表向きの善意の裏にある冷酷さがしだいに暴かれていく中、物語は予期せぬ核心へと向かっていく。
■感想
予告編を観た時からその独特な世界観に惹かれ、実力派として知られる奈緒さんと伊東蒼さんの演技に期待して鑑賞してきました。公開4日目時点での評価は可もなく不可もなくといった感じでしたが、最後まで目が離せない緊張感があり、見応えを感じました。
特に圧倒されたのは、これまでの清廉で親しみやすいイメージを一変させ、全く異なるビジュアルと尖った演技を披露している奈緒さんの存在感です。彼女が演じる映子の、他人の神経をあえて逆撫でするような挑発的な物言いには、観客まで心がヒリヒリとざわつくような緊張感を覚えます。相手が心の奥底に隠し通したいと思っている本音に、土足で踏み込むようなキレのある問いかけは物語の強力な推進力となっており、序盤から目が離せなくなります。
前半は、すでに亡くなっている亜佐美の姿が直接的に描かれる時間はほとんどありません。それにもかかわらず、映子が関係者たちにグイグイと迫り、対話を重ねていくプロセスの中で、亜佐美という人物の人柄や孤独がしだいに立体的に浮き彫りになっていくのを感じます。それなのに、観客はいつの間にか、対話の中心にいる亜佐美ではなく、彼女の影を追う映子自身の立ち位置や一挙手一投足に強く引き込まれていくという構図がおもしろいです。
物語が核心へと進み、映子の立ち位置が明らかになってくるのですが、ここからの五條弁護士とのやりとりがやや難解です。彼女の発する一言一言は十分に理解できるものの、最終的に亜佐美が抱えていた本当の心情も、映子の考えも、一度の鑑賞で完全に捉えきることはできなかった気がします。鑑賞後もさまざまな場面を思い返し、頭の中で咀嚼と反芻を繰り返す必要があり、非常に深い余韻を感じます。
亜佐美は、果てしなく不幸だったがゆえに、幸せの基準が極端に低く、誰かのふとした行動やなにげない一言に優しさを見出し、それを幸せだと感じていたのでしょうか。しかし、実はそれが本当の幸福ではないと十分に自覚していながらも、自分に言い聞かせるうちに心が麻痺してしまったのかもしれません。そんな自虐ともとれる亜佐美の生き方を受け入れることができず、映子はあのような行動に出てしまったのでしょうか。それさえも幸せだという亜佐美の最期を見届け、もはや亜佐美に問いかけることもできなくなった映子は、関係者を訪ね歩いて話を聞き、「亜佐美はやはり不幸だったのだ」と自分自身を納得させたかったのかもしれません。
しかし、それはどこまで行っても想像でしかなく、亜佐美の本心はわかりません。それゆえ、他人を自分のイメージに当てはめようとする五條弁護士に異を唱えたかったのかもしれません。どれだけ周囲がその人のことを語ろうとも、それは一面的な断片に過ぎず、本人の本心はもう誰にもわかりません。
「死ねばいいのに」という言葉は、相手を呪って軽くつぶやいてしまいそうな言葉です。でも、自らの手を汚したくはないので、「殺したい」ではなく「死ねばいいのに」。その無責任な言葉が本当に相手を追い詰めてしまったらどうなるのか。しかも、亜佐美を追い詰めた者たちではなく、救うべき亜佐美に対して発してしまい、あまつさえ自ら手を下してしまった映子の心情はいかばかりであったでしょうか。自責、後悔、罪悪感、無力感など、さまざまな思いがないまぜになって、最後は自分自身に「死ねばいいのに」と突きつけているように感じます。
物語の終盤、それまでの愛想笑いをいっさい封印した亜佐美の真剣な表情が忘れられません。
言葉に埋め尽くされた世界の片隅で、私たちは「終わらない鬼ごっこ」を続けている――映画『死ねばいいのに』が突きつける、他者という名の深淵
鹿島亜佐美という一人の女性の死。その謎を追う渡来映子という女性が、生前彼女を取り巻いていた人々を訪ね歩くところから物語は動き出す。
関係者たちの証言から浮かび上がるのは、亜佐美が彼らから「物」同然に蔑まれていたという、あまりにも冷酷な事実だった。
しかし、当の亜佐美は最期まで「私は幸せだ」と笑顔で言い続けていたという。
誰もがスマートフォンを握りしめ、SNSによって個人の「考え」や「正義」が24時間可視化され、言葉で埋め尽くされているのが現代という時代だと感じる。
しかし皮肉なことに、言葉が増えれば増えるほど、私たちは「本当の相手の気持ち」を読み解けなくなっている側面がある。
本作は、そんな現代のコミュニケーションのバグを、生々しく抉り出していく。
【自分の物差しで測れない「幸福」の形】
「こんなにひどい扱いを受けても幸せと感じるなんて、そんなわけ無いだろ」と思わずにはいられない。
だが同時に、何に価値を置くかなど人それぞれなのだと思い知らされる。他人の幸福を、自分の物差しで「間違っている」と断じる行為は、結局のところ、自分がそう思いたいだけの傲慢に過ぎないのではないか。
劇中、映子が投げかける言葉は、関係者たちの自己保身の仮面を剥ぎ取るが、それは同時に観客である我々自身にもブーメランのように返ってくる。
それは、どんな背景があろうとも、起きてしまった事実を淡々と受け入れるしかない人間の弱さと正直になれなさが、スクリーンから痛いほど伝わってくるからだ。
【他者理解という名の「永遠の鬼ごっこ」】
本作を観て痛感するのは、「人間の気持ちは一生分からない」という諦念、そしてそれゆえの希望にある。
生きている限り、人の価値観や考えは姿かたちを変えていく。そして、一人ひとり価値観や物事の捉え方は違う。
それはまるで、空に浮かぶ雲を掴もうとするようなものだ。こちらが手を伸ばし、追いかければ追いかけるほど、その実体はするりと指をすり抜け、距離感が開いていく。
手を伸ばしても相手の肩に触れることは叶わない、それはまるで「永遠に続く鬼ごっこ」のようだ。
だからこそ、本作において重要となるのは「分かろうとし続けること」そのものなのではないか?
私たちは日々、言葉を交わす。しかし、伝えようとするなかで、要点よく話さなきゃと思い、自分の中で推敲し、削ぎ落として残ったわずかな言葉では、相手に100%の気持ちを伝えることはできない。
いや、むしろいつでも100%完全に相手に伝えられる人は希少だと思う。
世の中は、語られていることよりも、語られていないこと(余白)のほうが遥かに多い。
【結論:映画が残した「余白」が私たちに問いかけるもの】
この作品には絶えず「余白」がある。バックボーンを違う視点から見つめ直さなければ、真実の輪郭は見えてこない。
どれほど辛くても、死んでしまったらそこで思考も関係性も止まってしまう。いざ誰かが本当に「死んでしまったら」その事実を受け入れられずに立ち尽くすのは、残された生者だけだ。
100%は分かり合えない。それでも私たちは、対話を諦めてはならない。
映画『死ねばいいのに』が残した巨大な「余白」は、スクリーンが終わった後も「生きている限り他者に向き合い続けなければいけない」ことを気づかせてくれるような、静かな狂気に満ちている。
全56件中、1~20件目を表示









