ナイトボーン 夜哭

劇場公開日:2026年8月28日

ナイトボーン 夜哭

解説・あらすじ

「ハッチング 孵化」で注目を集めたフィンランドのハンナ・ベルイホルム監督の長編第2作となるチャイルドスリラー。フィンランドの静謐な自然を背景に、生まれてきた我が子に違和感を抱く母親の姿を通し、理想の家族という幸福の内側に潜む恐怖を描く。

理想の子育てを夢見る新婚夫婦サーガとジョンは、サーガの故郷である自然豊かな田舎町に移り住む。北欧神話の気配が息づく神秘的な森に囲まれた古い屋敷で暮らしはじめた2人は、やがて待望の子どもを授かる。愛する夫と我が子との幸せな未来を信じて疑わないサーガだったが、生まれてきた赤ん坊にどこか違和感を抱く。不可解な怪異に次々と見舞われるなか、サーガの不安は次第に恐怖へと姿を変え、やがて狂気にのみ込まれていく。

「コンパートメント No.6」のセイディ・ハーラが母親サーガを鬼気迫る演技で体現し、「ハリー・ポッター」シリーズのルパート・グリントがサーガの夫ジョンを演じる。2026年・第76回ベルリン国際映画祭コンペティション部門出品。

2026年製作/92分/R15+/フィンランド・フランス・イギリス・リトアニア合作
原題または英題:Yön lapsi
配給:ギャガ
劇場公開日:2026年8月28日

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第76回 ベルリン国際映画祭(2026年)

出品

コンペティション部門 出品作品 ハンナ・ベルイホルム
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© 2025 Elokuvayh/ö Komee4a Oy, Filmai LT, Bluelight, Getaway

映画レビュー

4.0 【叫びと叫びと叫び】

2026年8月17日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

Ⅰ 森へ向かう車

舗装された道が消え、細い道をさらに奥へ進む。
車の先に現れるのは、一軒の古びた家。
周囲には廃棄物やガラクタが散らばり、とても「理想の家」には見えない。
それでも、サーガとジョンは喜び踊るように家へ入り、森へ駆け出していく。
そこでジョンは、人の手や顔のようにも見える木々に目を奪われる。
サーガが獣のような声を上げると、森もまた騒めく。
二人はその森の中で獣のように身体を重ねる。
そしてサーガの雄叫びが、病室での出産の叫びへとつながる。

叫び。
森。
出産。
血。

カメラが動くと、大量の血の中から頭が現れ、ジョンの顔まで血に染まる。

ここで本作は、出産を「生命の誕生」という美しい一点だけに閉じ込めない。
むしろ、生命が生まれることを、身体が裂け、血が流れ、何かが身体から出てくる出来事として最初から描いている。

さらに印象的なのが、描かれないものだ。
産後の身体から出る悪露。
本来なら出産の現実に含まれているはずのものを、映画はあえて映像化する。

ベルイホルム監督が描こうとするのは、出産や育児の「美しくない」側面でもある。
だからこの映画の恐怖は、怪物が現れた瞬間から始まるのではない。
母になる身体そのものが、すでに恐怖の領域へ置かれている。

Ⅱ 白い夢の部屋で、最初の叫びが始まる

子供部屋は薄暗い青緑色。
そこに白馬、雲の上の白い城、白い気球、白いテント、白いベビーベッドが置かれている。

白い夢。

けれど、その部屋にいるクーラは日光を嫌う。
そして、顔はほとんど映らない。

代わりに映画を支配するのが、泣き声だ。

人間と獣の声が混じったような、喉を引き裂くような泣き声。
サーガは耳を塞ぎたくなるほどの声を浴び続ける。

乳首を噛み千切るような力で母乳を飲む。
爪が肌を抉るほどの力で身体を掴む。

そのたびに、サーガの身体が削られていく。
それでも彼女は「母親」であり続けようとする。

ここで重要なのは、クーラがほとんど姿を見せないことだ。

赤ん坊だから動きは限られている。
顔も見えない。

それなのに、その声だけで画面の外にまで存在を拡張してしまう。
観客まで、その声から逃げられない。

クーラの顔を見せないことは、怪物を隠すためだけの演出ではない。
見えないものが、聞こえるものだけで人間の身体と精神を支配していく。

そして、この映画で本当に恐ろしい「叫び」は、やがてクーラだけのものではなくなる。

Ⅲ 母の声だけが、届かない

サーガには異変が見えている。

日光を嫌う。
母乳を求めるだけではない。
血を求める。
身体に傷ができる。
金属を嫌う。

それでも周囲は、クーラを「普通の赤ちゃん」として扱おうとする。

ここで本作が恐ろしいのは、周囲が露骨な悪人ではないことだ。

医師は医師として、夫は夫として、親族は親族として、それぞれの立場からサーガに言葉を向ける。

「普通の赤ちゃん」として考えようとする。
「今が一番幸せな時期」と語る。
母乳は母子の絆だという考えを示す。
ジョンは子供のお披露目を気にし、育児や家事をしている自分について語る。

一つ一つの言葉だけを見れば、決して間違ったものではない。

けれど、それらはサーガの苦痛を理解するためには使われない。
彼女が訴えている現実を、既存の「普通」の中へ戻すために作用してしまう。

そして夫婦には、もう一つ小さな断絶がある。

二人は共通言語で会話している。
しかし母国語は違う。

同じ家にいて、同じ子供を育てながら、世界を完全には共有していない。

この小さな言語の違いは、それ自体が大きな断絶を意味するのではない。
しかし、夫婦の間にある「同じものを見ているとは限らない」という感覚を、静かに浮かび上がらせている。

Ⅳ 「あの子」が「あいつ」になる

サーガの身体にも異変が現れる。

首に大きなしこり。
爪は真緑になり、真っ茶色にもなる。

それでも子供のお披露目では、クラッチ杖が必要なほど身体が弱っている彼女が、爪を白く綺麗に塗る。

白く飾る。
白い子供部屋。
白い装飾。
白く整えられた母親。

その白の下で、身体はどんどん変わっていく。

そして言葉も変わる。

「あの子」ではなく「あいつ」。

クーラの唸り声に、サーガも唸り声で返す。

サーガ自身もまた、獣の側へ引き寄せられていく。

その変化を、セイディ・ハーラは大きな演技で説明しない。

視線。
呼吸。
顔の筋肉。
身体のこわばり。
小さな動き。

その一つ一つが、恐怖と疲弊と孤独を身体の内部から滲ませる。

だから彼女の叫びは、クーラの叫びより強烈に感じられる。

クーラの叫びは異形の声だ。
しかしサーガの叫びには、異形のものを抱えながら、それでも母であろうとする人間の声がある。

Ⅴ 森は、最初から家の中にいた

この映画では、森が突然家へ侵入してくるわけではない。

最初から、家と森は切り離されていない。

家の床には、すでに木が存在している。
カーペットの下には穴が開いている。
その下では虫が蠢いている。

そしてサーガは、その穴の中へ血の滴る生肉を隠す。

やがて穴はさらに広がっていき、サーガはクーラとともにその中で眠る。

それはまるで、森の子宮へ戻っていくようにも見える。

さらに祖母の顔とサーガの腹には、大木の年輪を思わせるイメージが重なる。

木。
腹。
子供。
母。
森。

最初から別々ではなかったものが、次第に一つの輪郭へ集まっていく。

森は外部ではない。
サーガとクーラの側にあるものだったのだ。

Ⅵ 聞こえる者と、聞こうとしない者

ここで、映画のさまざまな「声」が一つにつながる。

クーラの泣き声。
サーガの叫び。
森の呻き。
風。
獣の唸り。

それらは、互いに呼応している。

クーラが泣く。
庭へ、森から強い風が吹き込む。
その風が過ぎ去ると、クーラは泣き止む。

そしてサーガは森の声を聴き、子供に「クーラ」と名付ける。

対して、夫や親族、周囲の人々の声は違う。

彼らはサーガに向かって話す。
しかし、その声はサーガから返ってくるものを受け取らない。

彼らの言葉は、一方向に投げられる。

「普通の赤ちゃん」
「母親なら」
「幸せな時期」
「母乳は母子の絆」

正しい言葉が、サーガの声を消していく。

Ⅶ 見えるものが、反転する

本作は、最後まで観客に「何が怪物なのか」を単純には決めさせない。

クーラの姿を見せることを極端に抑え、泣き声や身体への作用、周囲の反応だけを積み重ねていく。

そのため観客は、見えていない存在を、自分の想像によって補うことになる。

異形。
怪物。
人間ではないもの。

しかし映画は、最後にその認識そのものを揺さぶる。

ここで反転するのは、怪物の正体だけではない。

それまで「異常」として見ていたもの。
「母親の狂気」として処理されかねないもの。
「普通」の外側へ追いやられていたもの。

そのすべての見え方が変わる。

本作は、怪物を見せることで恐怖を完成させるのではない。

むしろ、観客自身が何を「怪物」として見ていたのかを問い返す。

だから最後に残るのは、怪物を倒したという単純な結末ではない。

「見る」という行為そのものが、反転する。

Ⅷ 森の側から見えるもの

本当に「つながっていく」のは、母と子と森なのだ。

だから本作において、人間社会と森は単純な「文明と自然」の対立ではない。

サーガが苦しんでいるとき、人間社会は彼女を「普通」の側へ戻そうとする。
森は、その「普通」から外れた彼女とクーラを切り離さない。

この違いが、本作の寓話性を強くしている。

「サーガ」という名前は、北欧神話の女神の名であり、「見る者」「語る者」と結びつけて語られる名前でもある。

一方、クーラはフィンランド語で霜を意味するだけでなく、木々や草などを白く覆う真っ白な結晶を指す。

この「白」は、本作の中に繰り返し現れる。

白馬。
白い城。
白い気球。
白いテント。
白いベビーベッド。
そして、身体の異変を隠すように施される白。

血の赤を最も鮮烈に浮かび上がらせるのもまた、白だ。

クーラという名前は、単に「冷たさ」を意味するだけではない。

白は何かを美しく見せる一方で、その下にあるものを覆い隠す。
それは、サーガの身体に起きている異変を白く整えてしまうこととも重なる。
そして人間社会もまた、目の前にある異常を「普通」という言葉で覆おうとする。
そう考えると、本作に繰り返し置かれる白は、単なる美術的な統一ではなく、見えているものを覆い、異なるものを「普通」の表面へ戻そうとする力としても見えてくる。

サーガは最後まで「見てしまった」母だったのかもしれない。

誰も見ようとしないものを見てしまう。
誰も聞こうとしないものを聞いてしまう。

そして最後には、人間の側から見れば「異常」だったものの側へ向かう。

Ⅸ 「夜哭」は、誰の叫びなのか

本作には、確かにジャンル映画としての面白さがある。

森。
怪異。
血。
獣。
身体の変容。

色彩、美術、撮影、音楽、音響、演技が一つの世界を作り、その中心に置かれているのが、あの泣き声だ。

顔を見せない赤ん坊が、声だけで映画を支配する。

その声に母の声が重なる。
さらに森の声が重なる。

だから、クーラの獣のような泣き声よりも、むしろサーガの叫びのほうが恐ろしい。

人知を超えた子供より、
目の前で苦しんでいる人間を、自分たちの「正しさ」の中へ押し込めてしまう人間のほうが怖い。

『ナイトボーン 夜哭』は、母性を美しいものとして飾る映画ではない。

血も、痛みも、疲労も、怒りも、嫌悪も、愛情も、そのすべてを抱えたまま母になることを、森と怪異の寓話へ変えている。

そして最後に残るのは、ひとつの奇妙な問いだ。

あの夜、哭いていたのは誰だったのか。

クーラなのか。
サーガなのか。

それとも、彼女の声を聞こうとしなかった世界そのものなのか。

X:物語の臨界を穿つ者|映画観測官(@kinemalover)

ナタリー試写会   2026.8.10

#ナイトボーン #NOROSHI #ナタリー試写会

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物語の臨界を穿つ者|映画観測官

4.0 北欧の静寂と孤立

Kさん
2026年8月10日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:試写会

《試写会にて鑑賞》

ジャンプスケアは、ほとんどなしで
音にに頼らないタイプなので
かなり見応えがあります。

どこまでも美しいフィンランドの静寂が
広がるからこそ家庭内という密室に響く、
“あれ”の泣き声が最悪の異物として
際立っていました。

観る側の属性や立場によって
これが怪異の悲劇に見えるのか
それとも母親の暴走に見えるのかが
180度変わってくる作品。

夫婦の相互理解の不可能性を描いた地獄を
目の当たりにしました。

観客自身の倫理観や、
親であることの資格まで逆照射してくる。
後味の悪さまで含めて見事でした。

ゴア描写も素晴らしくて
心臓鷲掴みと血塗れ出産に大満足。
笑える場面も多々あり。

本日はありがとうございました。

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K

3.5 金治は一体何を産んだのか!

2026年8月5日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:試写会

汚い館、不気味な森、そして血塗れの出産というショッキングな映像が観客の度肝を抜く!
母親や子供たち、そして観客の目に映る「生まれてきた何か」は明らかに怪物なのだが、父親や周囲の大人たちの目には違う。この温度差怖いのなんの。
主人公が叫びたくなるのが激しく理解できる!
常に付き纏う疎外感。
産後鬱という言葉だけでは片付けられない恐怖と不安が主人公と観客を襲う構成は見事としか言いようがありませんでした。

そこに加わる主人公の凄まじい形相。
一重に母親を演じたセイディ・ハーラの功績が大きいと思えるほど、彼女の存在感が本作の根幹を支える柱となっておりました。
アニマトロニクスで動き回る赤子を相手に鬼気迫る表情で対峙する彼女のおかげで全てがリアルに感じられました。

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かもしだ

4.0 北欧の神話

2026年8月4日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:試写会

この映画を観てまず強く感じたのは、フィンランドの森に今も息づく北欧の古い神話の気配だった。
トロールは単なる怪物ではない。森そのものと境界を曖昧にし、人間の側にわずかに混じりながら生き続ける存在だ。サーガの家系にも、その血が静かに流れているのだろう。祖母が鉄を張り巡らせて森を遠ざけようとしたのは、恐怖からではなく、血のつながりを知っていたがゆえの防衛だったのかもしれない。都会のロンドンから、生まれ育った森の家へ戻ってきたサーガは、その境界を自ら越えていく。森の中で命を宿した彼女の子は、単なる人間の子ではなく、森の精と彼女の間に生まれた「夜の子」——トロールの血を継いだ存在として描かれる。日光に焼かれ、鉄を忌み、血を求めるその姿は、北欧伝承に語られるトロールの特性そのものだ。
森はここで単なる舞台ではない。母体そのものとして機能している。床の穴の中で子供を抱き、眠る母子の姿は、森という子宮の奥深くに回帰した光景だ。最近観た『ハムネット』でも、森と深く結ばれた女性の身体と心が描かれていたが、本作はそれをさらに生々しく、ホラーの肌触りで押し進める。女性だけが経験する、生命を宿し、産み、育てる過程で身体も心も否応なく変容していくこと。母性。それがどれほど歪み、どれほど恐ろしいものであっても、そこから逃れられないという事実を、容赦なく突きつけてくる。
毎月流れる血、授乳の痛み、誰にも理解されない孤独。周囲は「育児疲れ」「ホルモンのせい」と片付けようとするが、サーガだけが真実を知っている。この物語は神話やボディホラーの皮を被りながら、現代を生きる母親たちが抱える育児ノイローゼや産後の孤立感を、容赦なくメタファーとして描き出している。理想の家族を夢見た夫婦が、森と血と神話の力によって崩壊していく過程は、痛ましくも美しい。
セイディ・ハーラ(Seidi Haarla)の演技は凄まじい。徐々に獣性を帯び、理性と本能の境界が溶けていく過程が、言葉を超えて伝わってくる。そして夫役のルパート・グリント。ハリポタのロンが、ここまで静かに、そして痛々しく変貌するとは。善意の夫として「正しいこと」をしようとすればするほど、サーガを追い詰めていくその姿は、現代の夫婦関係の危うさを静かに抉っている。
フィンランドの妖精といえば、どうしてもトーベ・ヤンソンのムーミンを思い出してしまう。ムーミンもまた、トロールの血を引く存在だった。かわいく愛らしく描かれた彼らと、本作の夜の子たちは、同じ神話の地層から生まれながら、まったく異なる表情を見せる。深掘りすれば、血の継承、人間と自然の境界、母性の両義性など、いくつもの考察が重なってくる映画だ。観終わった後も、森の湿った匂いと、床から伸びる根の感触が、しばらく体に残る。

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chai