名無しのレビュー・感想・評価
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エンドロールまで我慢できなくて・・・
基本、館内が明るくなるまで余韻に浸るんだけど、今作はロール途中で帰りました。
登場人物の誰にも共感出来ないし、なぜラストの虐〇で園長(?)は躊躇ったんだろ、とか、MEGUMIの急な発△とかも。あれだけ頭をバットて強◇されたのに、手術後包帯巻いただけでペラペラ喋れるんだろう、とか。あと佐々木蔵之介さん全体の行動も。宗教的な観点が何かあったのかな。いろいろな方のご意見を聞いてみたいです。
絶望
育児放棄された身寄りも無く、名前も無かった山田太郎(佐藤二朗)が、極めて無差別殺人的な大量殺人をしてしまう。只、無差別では無いのが自分と同じ様に名前の無い(知らないも含む)ものにはその手は及ばない。
まるで、太郎の内なる声を現した様なその右手は、一体何を言いたかったのだろう。
佐藤二朗さんが書いた脚本。
昨年「爆弾」でも悲しい狂気を演じられ、圧倒的な存在感を見せ付けられた。今作の主人公は途轍もない絶望とでも言う様なギフトを与えられていたが、更に負荷のかかった狂気を追及したかったのだろうか。
演技は言うまでも無く佐藤二朗さんの拘りが伺えた作品だった。
本日のお題。「無敵の人」が本当に「無敵の人」だったら??
基本的には、そういうネタ映画なんだと思う(笑)。
別の言い方でいうと、観客に対して、どこまでも「露悪的」な映画なんだろうね。
原作を書いた佐藤二朗本人は、「当たり前のことに冷や水をかけるようなことをやりたかった」と、パンフで仰っていたけど。
たぶん冷や水をかけたいターゲットは、自分のことを善良な人間だと考えていて、正義の存在を素直に信じていて、物語にもある種の「安心」を求めているような「顔のない大衆」。
そういう連中(多分、佐藤二朗は内心こいつらみんな●ねばいいと思っているw)めがけて「単純にイヤな気持ちにさせること」それ自体が、やりたいことの中核にある。
そういう映画なのではないか。
「なんの罪もない一般人がいきなり災厄のように殺されまくる」バツの悪さ。
「その犯人を必ずしも絶対悪として描かない」バツの悪さ。
かといって、そこまでお涙ちょうだいにするでもなく、シリアスな部分を思索的に深めるでもなく、どことなく「さくっと」「からっと」敢えて「安直に」仕上げてある。
このB級感とか、志の低い感じ(笑)とかが、映画.comで3点台付近をうろうろしている理由のひとつであろうし、さらにはまさに「冷や水を浴びせられた」層(ここで映画評とか書いてるような手合いを含むw)が、ふつうにいらっと来て反発を示し、低評価をつけた部分もあるだろう。
逆に言えば、世間からイマイチ評価されない部分や、一部のまともな層から叩かれる流れも含めて、現状は佐藤二朗の目論見通りなんじゃないかな、とも思う。
賛否両論ではあっても、だいたい狙っている着地点には、ちゃんと立てている映画なのではないか。
僕は、同じように「しれっと殺人鬼や食人族が出てきて」「罪があったりなかったりする一般人が、意味もなく殺されたりなんとなく助かったりする」ジャック・ケッチャムの小説群(『隣の家の少女』『オフシーズン』『ロード・キル』など)をこよなく愛する人間であり、こういう悪意が「天災」のようにパンピーに牙をむいてくるお話は基本大好物なので、『名無し』もまた大変楽しく観ることができた。
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本作の脚本は、主演の佐藤二朗本人の手になるものである。
佐藤二朗という人は決して、福田雄一に発達系コミックリリーフとして使い潰されるような俳優ではなく(笑)、本当はやろうと思えばどんな役でも出来る、鋭い知性と演技への情熱と入念な役の作り込みを兼ね備えた、一流の演技者である。
最近の佐藤は、トリッキーはトリッキーでありながらも、より深みのある役柄が回ってくるようになり、『爆弾』での怪演で、ある意味、業界の中心的存在へと上り詰めた感がある。
そんな彼が自ら着想し、映画化に向けて動くがなかなか決まらず、その後まずは漫画化することに成功し、こうやって自ら脚本・主演で映画化するところまで漕ぎつけたのが、本作『名無し』だ。
出来栄え云々はさておくとしても、俳優が自らの作りたい企画を力業でプロデュースし映画化していく流れは、まさにこの50年くらいのハリウッドの傾向でもあり、ようやくこういう映画が日本でも出てきたかとも思う。
昔から日本では「大俳優が自分の主演作品を撮るために映像会社を立ち上げる」こと自体は、三船プロとか石原プロとか中村プロとか勝プロとか、それこそふつうにあった。ただ、脚本も書ける劇団上がりのマニアックな俳優が、自分のホンで映画を撮ろうと情熱を傾けるような流れは、意外になかったような気がする。
欧米でいえばこういう例は、ウッディ・アレンとか、さかのぼればエリック・フォン・シュトロハイムとか、オットー・プレミンジャーとかいろいろあって(佐藤二朗自身はパンフでマット・デイモンとベン・アフレックの名前を挙げている)、最近だとハリウッドの一流俳優は、監督業まで手を出さないと大成していないような雰囲気まであるからね。
日本でも賀来賢人がプロデューサーとして映画を作り始めたり、ゆりやんレトリィバァが監督をやったりと、「演じる側が作る側へと積極的に関与していく」流れが生まれ始めている。佐藤の挑戦が、こういった潮流に勢いを与えてくれればと、切に願う。
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『名無し』の脚本の初稿は、5年前にはあがっていたらしい。
発想の源流にあるのは、おそらく片山慎三監督とつくった『さがす』(22)ではないか、と僕は思っている。
『さがす』は22年の公開ではあるが、ネットで調べてみると撮影期間は2020年春ごろの約2か月間ということだ。さらに片山監督からのオファーと脚本が佐藤に届いたのはそのずっと前のはずだから、やはり『名無し』より前に『さがす』があった、と考えるべきだろう。
両作には、観ればわかるとおり、いろいろな共通点がある。
●極度の貧困のなかでぎりぎりの生活を送る「棄民」の存在。
●「名前」を喪った主人公(『さがす』は西成が舞台。本作は遺棄児童)。
●凄惨な暴力を突破口に、閉鎖状況を突破しようとする展開。
●犯罪的気質と発達傾向をオーヴァーラップさせる意欲的な踏み込み。
●貧困家庭における結婚、妊娠、出産の問題。
●捨てられた子供のサヴァイヴァルと、親との向き合い。
●佐藤二朗が演じるキャラクターの外見、性格、行動。
●佐藤二朗がふりまわす金づち。
●『さがす』における佐藤二朗が演じていないほうの連続殺人鬼の通り名が、まさに「名無し」。
ね? 影響関係が「ない」と言い張るのは難しそうだ(笑)。
とくにトンカチを豪快にスイングする二朗さん見ちゃうと、「あああああ!」っと思っちゃう。あれはやっぱり、佐藤二朗による片山慎三監督に対する挨拶というか、メッセージみたいなもんじゃないのかな。「悪いけど、いろいろ使わせてもらったよ!」っていう。
パンフを見ても言及がないから、佐藤本人としてはあまり触れられたくないことなのかもしれないが、明らかに『名無し』は自らの主演した『さがす』にインスパイアされた作品だ。
あの映画の「西成の親子の絆」といった「じゃりン子チエ」風の人情噺的な部分と、社会問題に対する思いがけず深い洞察といった要素を抜いて、代わりに「神の右手」(望まぬ異能)というSF的(伝奇的)要素と、ある種の吹っ切れた俗悪さを付け加えたのが『名無し』という映画だといってよいのでは。
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突然付与された異能、というテーマは「弱者の抵抗を描く」物語においては常に王道である。
「右手に付与された」パターンに限定しても、二けたは過去の事例が思い浮かぶ。
まずはなんといっても『とある魔術の禁書目録』の上条当麻。それから楳図かずお先生の『神の左手 悪魔の右手』。『寄生獣』のミギーだって、右手だからミギーなわけで。
他にざっと思いつくだけでも、『必殺仕置人』の念仏の鉄、『コブラ』のサイコガン、『幽遊白書』の飛影「邪王炎殺黒龍波」、『スクライド』のカズマ「シェルブリッド」など、右手が特別なスペックとして機能する例は枚挙にいとまがない(ちなみにぬ~べ~先生の鬼の手は左手ですw)。
『名無し』の場合は、「触ったものを見えなくする/触ったものの命を奪う」能力。
厨二病系における「透明化」と「触れたら即死系」の掛け合わせとでもいおうか。いっちゃあなんだが、ほぼほぼ「無敵」である。
本来なら、セカイの救済者になったり、ジャスティス・リーグかアヴェンジャーズに入れるくらいの異能だと思うのだが(笑)、頭と育ちが悪いためにうまく活用できず、自ら能力を封印したあげくに最下層の暮らしに汲々として、最後の最後で爆発しての憂さ晴らしをするにせよ、無差別殺人くらいしかやることが思いつかない、という体たらく。
「異能者の悲哀を描く」といえばデイヴィッド・クローネンバーグ監督のお家芸だが、彼の生み出す主人公は、望まぬ異能で人を殺めることに傷つき自壊していくことが多かった。一念発起して街で人を殺しまくる山田太郎の「どうしようもなさ」は、クローネンバーグの描く「悲哀」とは一線を画している。
やっぱり、持って生まれた才能をちゃんと生かすには、本人の側に「一定の知性」と「努力できる才能」と「最低限のコミュニケーション能力」と「相応の教育」だけは、なんだかんだで必要なんだな、と思わされる事例である。
基本的には、人がバタバタ死ぬのも、佐藤二朗がうーうーうなってるのも、佐々木蔵之介が吼えくるってるのも、MEGUMI(小汚すぎて初見で誰かまるでわからなかった)の野獣キスも、どれも面白かったし、総じて楽しめたのだけど、一方で全体的になんとなく設計が緩いというか、ロジックとして適当な印象は否めなかった。
個人的に一番納得いかなかったのは、「触ると見えなくなるルール」それ自体ではなくて、映画版において監督の意向で付け加えられたらしい、「鏡面や水面には、持っているものの姿形が映る」というオプション・ルール。
持ったら人の目から見えなくなるものが、鏡になら映るというのであれば、光の反射の原理は一緒なんだから、防犯用のヴィデオカメラにも映らないとそこはおかしいんじゃないですかね?? ドラキュラの姿が鏡に映らないのは、「見えてはいても実体がない」からだと思うけど、この場合はその逆で、「鏡面や水面に映る」のなら「ヴィデオにも映る」のが筋なのではないかと。
他にも、凶器が映っていないだけで、山田太郎の行動によって相手が殺傷されているのは確かなんだから、この映像だけで逮捕要件としてはもう十分なんじゃないかとか、「あの見えない凶器で次々と民間人を殺戮する映像」をさんざん観たはずの刑事たちが、あんなにも無防備に山田太郎に近づくのはさすがにまずい(というかとんでもなく頭が悪い)んじゃないかとか、いろいろ思うところはある。
山田太郎がテロの元凶であることはどこからどう見ても「あきらか」なのに、まわりの群衆が「凶器が見えない」というだけで彼の存在を「全然気にも留めない」(そのせいで不意打ちで殺されまくる)なんてことがあるんだろうか、とも思う。ふつうは「なんか怪しい危険の中心部からとにかく遠くに逃げようとする」のが、危機に直面した一般人の群集心理なのでは?
とはいえ、それだけ山田太郎が人間として希薄な存在――もっというなら「無意識のうちに目を逸らして回りが見ないふりをしている存在」だからこそ、この物語は成立しているともいえる。「凶器を振り回していても気づかれないくらい希薄な存在――無警戒・無関心のどん底に棄て置かれているような人間を、世間が生み出してしまっている」という「棄民への懸念」が、この映画の核には間違いなくあるからだ。
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●城定監督は前前作『嗤う蟲』で認識したが、相変わらずの職人監督という印象。『嗤う蟲』で書いた「B級娯楽映画の枠内で、なるべくリアリティラインをあげて組み立てようとしている」という評は、本作にもほぼそのまま当てはまる。ちなみに「JOJO」って苗字、本名なの? すげーな。
●やけに顔の濃い(たいした役じゃないのに)異様に目立ってるオヤジがいて、誰かと思ったらまさかの大高洋夫だった!! いまこんなクセツヨオヤジになってんのね(笑)。
●丸山隆平の演じた警官は基本的に善意の人として出てくるが、「名無し」が本当にこの物語で「業」として機能しているのなら、彼がちゃんと山田太郎と花子に「本気で考えた名前をつけていたら」後々こんな展開にはならなかったのかもしれないよね。
●ラストに出てくる子供について、他のレビュアーの方が「若い頃の自分の幻影」ないしは「神様」と解釈されているのを読んで、ああそういう考え方もあるのか、と思った。
個人的には「花子はああは言ったけど、やっぱり産んでたんだよな。そりゃあれだけ臨月になって実際はおろせるわけないもんね」と、なんの疑問も持たずに「息子」だと思って観ていたんだけど(そう思った観客もきっと多いのでは)。単純に、息子と「神の右手」バトルやったら負けちゃったみたいな。
まあ、あれだけの数の人間を殺戮した「正真正銘のクズ」としては、むしろ救済に近い最期だったのではないでしょうか。
理不尽な殺戮
原作未読。佐藤二朗さんが演じる山田太郎が、ひたすら善良な市民を血祭りに上げていく内容でしたが、やっぱり納得がいきません。
よく分からなかったのが、ラスト山田太郎が瓜二つの少年と右手で握手しますが、あの少年は山田太郎ではなかったのかな?
右手の命の消失の設定ももう少し分かりやすい説明がほしかったです。
無差別殺人の動機は何だったでしょうね。右手が使えない魂の叫びだったのでしょうか。
最後、エンドロールの曲が良い
コミックを読んでから鑑賞したので、なるほど、佐藤さんは警察官じゃなくて山田のほうなんだ?と違和感があったが佐藤さんの怪演にどんどんと引き込まれていきました。
右手の設定や、終わり方はコミック同様にまぁ、よくわからんけどそうなんや?とスッキリするような内容ではないので、低評価にされる方も多いとは思います。
ただ、最終のエンドロールの歌で全部回収されるというか、納得はできないけど感覚としてストンと入るような、、
多分エンドロールがもし違ったら評価も変わったかもしれません。
脚本:佐藤二朗を知ってたら見てなかった
設定も脚本も中途半端。右手の設定があやふや。何で鏡とか水たまりには映るのか、この原理なら防犯カメラにも映りそうなものだが...。
あの状態の主人公が普通に働いてるのも違和感。どうやって就職したん?
最後に暴れるシーンで子供の頃の自分(神様?)が目の前に現れるけど、他の人がその子の実在を確定させちゃうシーンがあるから、確保された主人公と右手をつなぎ合うシーンの違和感がヤバい。大事な被疑者ほったらかしにせんやろ。主人公にだけ見える演出だったらそれ程無理のないシーンだったのに残念。
ただのバットで殴っただけなのに血が飛び散る演出とかも違和感しかないし(飛び散らせたいなら釘バット使うやろ)、何もかもが考えが足りてない。
唯一良かったのは福田監督じゃなかった事かな。福田組の佐藤二朗は見れたもんじゃないから。
もし神様。暇してるなら、俺と手を繋ごうよ
見飽き感のある通常運転のホワイト佐藤二朗ではなく、こういうブラック佐藤二朗もたまにはいいが、特殊能力を持つ設定自体が、受け入れるのに整理がいる。本来、その右手を一生隠して生きていくことは難しいだろうし、せめて障碍を偽装して手袋を常備しているとかの細工はしてた方がいいんじゃない?と思う。ほかにも、警察は捕まえられないまでも犯人特定くらいできるでしょ?、近所で大漁殺人事件が起きていながらイベント開催ってどうよ?、とかけっこう無理がある。
だけどね、やっぱし最後の説得力が半端ないな。国枝のあの言葉に震えた。どうなったんだろ、あの少年はと思ってたものな。必死の国枝を見て、ああお前だったのか‼と涙が出た。
そして太郎だけに見えた少年時代の自分の幻影、と見せかけて、あれは神様なんだろう。もう、特殊能力設定があるなら何でもあり。あれは、人間の姿を借りて現れた神様。じゃあなんで神様は「太郎」という創造物を作ってしまったんだ?という怒りにも似た思いが湧く。「太郎」は神様として失敗だったのか?、失敗ならもっと早く処理しなかったのか?、人間社会を混乱に陥れようとした悪戯なのか?、といろんな想像が働く。たぶん、制作側はそこまで意図はないだろうけど。最後に天に唾することが、どこか歪んだ現在社会に対する不満、神様に対する皮肉にも見えた。
バトル・ロワイアル並み
佐藤二郎さんの怪演見たさに視聴しました。
自分の魅せ方を知っている方なんだなぁ、と改めて実感しました。
人間、境遇によって怒りや絶望のラインは様々だけど、自暴自棄になるのは
同じかも。
ただ、バッサバッサと無差別に人をヤル、シーンはバトル・ロワイアル以来、久しぶりだったかも。
(私は)
怒りを何かにぶつけられるって気持ちいいかな、スッキリしたかな。
自分で自分を破滅へと誘っているよね。
あと、花子が太郎をほっとけないで
一緒にいるのは母性なのかな、と思いました。
大画面で佐藤二郎さんを見て、肌キレイだなぁと思っちゃいました。
さすが、俳優!
神は天にいまし、でも世はわりと地獄
神さまは、空が輝いて見える人には手を差し伸べ、真っ黒に見える人には差し伸べない。
神さまに助けを求めて手を伸ばす間は、手の影で空は黒く見える。
最後の最後まで人と繋がることを諦めず、神に手を伸ばし続けた太郎は気にかけず、クソに堕ち、手に穴が空いた(影ができなくなった)途端に手を差し伸べて願いを叶える。
その結果、手を繋いでくれた無も知らぬ同胞(実は父)を死なせてしまった子供は絶望し、次の名無しになりましたとさ。完。
...ってことだと思うのですが、救いが無さすぎる!
人の善悪や信仰と神の愛は無相関で、人から見たら理不尽にも見えるのかもしれませんね。
ストーリーよりも、演技や演出を楽しむ作品かな〜という印象でした。
とくに、子供のことを考えてウッキウキな太郎と、ゆっくり横になるワンちゃんの演技が可愛すぎてとても良かったです。
見えない凶器
見えない狂気という言葉があるけど、この作品は見えない凶器だった。かけているのかな。
店で居合わせた人、街で隣を歩いている人、どこで誰がどんな狂気(凶器)を持っているかわからない。
太郎の右手が不気味でよかった。名前を認識すると消える、生命を奪うという設定も子供時代に上手く描写されていてひきこまれた。自分に名前が無くて、居ても居なくても変わらない存在だから、力の条件に名前の認識が関係しているのかな。
犬のシーンは本当にやめてほしい。犬や猫がこうなる映画は作り物とわかっていても苦しくなる。下調べしておけばよかったと後悔。
大人になった太郎と花子の右手で触ってのシーンは気持ち悪かった。ダブルミーニングかな、絶望から来る触って(殺して)と、性欲から来る触ってが、非常に生々しくて秀逸なシーンだったと思う。
太郎は右手で万引きをしてきたけれど、生まれてくる子供のための玩具は左手で持って帰っていた。働いたお金でちゃんと買ったのだなとわかる描写がよかった。
人と繋がれない、繋がりたい太郎にとって唯一の希望であった子供をおろした(と聞かされた)ことでぷつんと切れてしまいあんなことになったと思うけど、子供を産めない、育てられないと思った花子の気持ちもわかる。
太郎が花子を右手で殺さずにあえて凶器で殺したのはどんな理由だったのかな。子供をおろした恨みか、裏切りと感じたからか、もしくは全て諦めたから全て消したくなったのかな。
息子は結局施設で生きていて歓喜したけど、繋がれたと思ったら息子の右手で殺された。綺麗な終わり方だった。
「爆弾」に続き佐藤二朗さんの主演作品を見たけど、今回は喋りはなくて表情や呼吸だけで魅せてくれた。こういう気持ち悪くて不気味な役がハマる唯一無二の役者さん。個人的には爆弾のタゴサクの方がよかったかな。でも今回は制作側でもあるというのがすごい。
佐々木蔵之介さん格好良かった。あのキャラのおかげで映画が締まったように思う。
子どもつくっちゃうかぁ?!でもそれが唯一の希望だった
上映時間:15:25 ~ 17:00
上映劇場:シアター5
券種 :◆メンバーズデイ 2枚
合計2,600円
座席 :G -9、G -10
日本アカデミー賞助演男優賞受賞の後だけにどんな演技を見せてくれるのか期待しての鑑賞。
冒頭、ファミレスでの宗教の勧誘シーンで最初の殺人が起きる。主人公が自身に向けて祈っている勧誘者に向かって腹部を刺すが相手は凶器が見えずただ腹部から出血してるのに戸惑いながら絶命。いくつか殺害を続けながら次は街なかで通行人を撲殺。
主人公は右手で掴んだものが傍目には見えなくなるという特異体質(?)がありそれを利用して最初は包丁、次はバット、そして撲殺した警官から奪った拳銃を使って殺人を繰り返してゆく。最後、警察に逮捕されるが自身の子ども(劇中では明らかになってないが恐らくそう)に右手と右手で接触し絶命。
佐藤二朗が原案となった漫画を原作、脚本も本人が手がけている。主人公は場末の路地裏にいたところを警官(丸山隆平)に一緒にいた女児(血の繋がりなし)と保護され児童養護施設に引き取られ、そこで山田太郎(女児は花子)と命名される。
太郎は右手で触れたものが絶命する(花は枯れ犬や人間は白目を剥いて死ぬ)ので左手しか使えず生活するのに相当難儀しただろう。
やがて成長した太郎は花子(MEGUMI)と二人暮らしで花子は妊娠するが太郎との(味気ない?)生活に耐えられず家出。10年経って2人は再会するが花子から子どもは堕ろしたと聞かされ怒りから花子を殺害し冒頭のシーンにつながっていく。
映画では殺害(現在)のシーンと子供時代から花子を殺害するまでのシーンが場面転換で交互に描かれていく。
二朗さん、セリフはほとんどなかったが淡々と殺人を犯していくのが何を考えているのかわからず不気味で圧倒的だった。
何のために生まれてきたのか、自分の能力に恐れおののき生きてきたが、花子との子どもに希望を見出し恐らく生きがいとなっていただろう。だが子どもを堕ろしたと花子から聞かされ絶望から怒りへ殺戮を繰り返していき、最後は自分の子どもが生きていたことを知って安堵して死んでいったのではないか。
だが子どもは能力を受け継いでしまったので苦しみの連鎖は続いてゆく。スッキリと終わらず重苦しさが残る。ただ山田太郎には共感できた。
人とのつながりこそ生きてる証しかも
生まれながらに右手に不思議な能力を持ち、それが故に親とも離れつらく孤独に耐え人と関わることすら避けながら生きてきた男が、孤児の頃からの唯一の理解者の女にも逃げられたことで真に孤独に。10年後に再会し狂気が爆発する。
無差別殺人で命を絶たれた人にも人生はあって周りの悲しむ人もいるそれも関わりがあってからこそ。毎日のように事件事故、戦争などで人の手により失われる生命があって直接的でなくても誹謗中傷やイジメによって命を絶つ人もいる。大多数のわれわれからは名前も知らない人の身に起きたことであり自分たちには何も影響しない。
名無しという邦題、名前がないから生きていても死んでいても何も変わらないって台詞が何度かあったけど、生きてるからこそ喜びも悲しみも憎しみもあり、それは人との関わりがあってこそ。関わりのない人生など本当はないのですよ。だから悲しむ人もいる、天命は全うしなければならないのです。
ラストに至るまでのシーンはそれまでの過去と現在の繋がりがわかって納得のラストとなります、我が子が生まれ生きていた事を知り、我が子に命を絶たれる時の後悔の涙だったのだろうか。
生きることに絶望していても生きていれば良いことはあるとのメッセージなのか、死んでしまったら良いことがあるか否かさえ閉ざされてしまう。
この世に病気や障害、悩みを抱えて生きてる名前も知らない人が沢山いるわけだしそういった人と関わる時に相手を思って関わることは大切だと言いたいのかなと思った。
タイトルなし(ネタバレ)
81分。内容はともかく、コンパクトでとても見やすい。
某監督のおかげで佐藤二朗さんには苦手意識があったのだけど、なるほどこういう役もハマるんですね。
ジョーカーばりに自然と狂った演技ができていると思う。
セリフまわしには首を傾げずにはいられなかった。
男の数少ないセリフである「神様、暇してるなら〜」って、なんのこっちゃ?
全然刺さらないぞ。
神様というのは冒頭に出てきた信者への当てつけだろうか。
だいたい暇してるって何だ?表現にいちいちむず痒さを覚える。
せっかく無言を貫いてきた男が口を開く重要なシーンなのに、中途半端に喋ったことで、むしろ男への関心を失いかけてしまった。
あと、どうでもいいことだが、右腕を使わない生活をしてきた割に腕力が強すぎる。
バットで殴り抜く瞬間、体幹が全くぶれない。
腰を入れてる感じでもないので、ほとんど腕の力だけで振っている筈だ。
栄養も足りていないだろうに、大したパワーだ。
佐藤二朗の凶相を堪能する
良い部分と悪い部分が明瞭に分かれた作品で、佐藤二朗のパートはすべて良い。インビジブルエアで殺戮の限りを尽くす佐藤二朗なんて絵面だけでも最高だし、とても人とも思えないような凶悪な表情に魅せられる。一方他の…特に佐々木蔵之介の熱演がカラ回る警察パートの出来は明らかに悪く、ステレオタイプの連続、リアリティのなさ(正体不明の武器で無差別殺人してる相手に警官2人で向かうか?)などに辟易する。とはいえその凡庸さが、鮮烈なオチに繋がっている感もあり、評価は難しい。「爆弾」のプロトタイプのインディーズ版、みたいな印象も受け、観た順番が逆ならもっと楽しめたかもしれない。
ひとはみんな一人じゃない
怖いもの観たさで行きましたが、予想通りの怪演。でも、血が嫌いな人や辞めた方がよいかと思います。
『爆弾』の怪演で、第49回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞した、佐藤二朗の原作、脚本、主演の映画です。この手の、ねじが外れた、血生臭いことをする人物を演じたら、今やこの人しかいないですね。
『さがす』では、「名無し」と呼ばれていた指名手配犯を追っていましたが、今度は自分が「名無し」―いてもいなくても同じと考える存在―となってしまいました。「名前」という社会との接点を持てない人ということで、この2つの映画はリンクしています。ひとが、名前によって他者の中に存在し続けるという意味では、『無明の橋』のテーマともつながります。
映画を観ながら、いつもながら、わからないことがいろいろ出てきました。右手で持っている消えた刃物が、鏡などで反射すると見えるとか、「太郎」が10歳くらいで警察に保護されるまでどうやって育てられたのかとか、「花子」とどこで知り合い、どうやって暮らしていたのかとか、右手で触れることでものが消え、生命体の生気を吸い取るという現象が起こる理屈とか...
あることがきっかけで、他人と繋がろうすることをあきらめ、いままで使わないように我慢してきた右手を使うことで、犯行に及ぶのですが、そのきっかけがとても不憫で、重く感じました。
子ども時代の「太郎」を演じている和彦は素晴らしい演技をしています。これからいろいろなところに出てきそう。
急に「太郎」の歯並びが変わったことが気になりましたが、とても哀しい映画でした。
人と触れ合えること、繋がれることの尊さ
佐藤二朗さんが5年前に書き上げた脚本。
30人以上のプロデューサーに持ち込むも映像化は叶わず、漫画化を経てようやく映画化された作品だと知った。
作品を観ながら、ふと「今の佐藤二朗さんは何を思っているんだろう」と考えた。
長い年月をかけて生まれた作品だからこそ、公開できた喜びはもちろんあるだろうし、一方で我が子を送り出すような寂しさもあるのかもしれない。
右手で触れたものの“名前”が分かると、その相手を死なせてしまう能力を持つ男・山田太郎。
設定だけ聞けばファンタジーだけど、この映画が描いているのは能力の話ではなく、人と繋がることができない孤独の話だったように思う。
映画は冒頭から衝撃的だ。
信心深い女性との会話の中、鏡に映る太郎の右手には長い包丁が握られている。
しかし実際には何も持っていない。(見えていない)
その手が女性に向けられた瞬間、大量の血が流れ出す。
「とんでもない物語が始まったな」と思った。
太郎には顔をクシャッと歪める癖がある。
まるで神への怒りを抑えきれないような。
なぜ自分だけがこんな能力を背負わなければならないのか。
そんな悲しみや絶望も感じた。
一番心が動いたのは、花子が太郎との子どもをおろしたことを告白するシーン。
母親になろうとしたからこそ見えた現実。
そして、その言葉を受けて太郎が「もう人と繋がろうとするのは諦める」と決める瞬間。
子どもの頃に照夫から言われた「お前は一人じゃない」という言葉を、太郎はずっとどこかで信じ続けていたはずだ。
だからこそ、この場面は太郎が“哀しきモンスター”へと変わってしまう決定的な瞬間に見えた。
映画を観終わったあと、佐藤二朗さんのインタビューを読んだ。
「大切な存在と触れ合いたいと思ってもらえる作品を作りたかった」
その言葉を読んで腑に落ちた。
この映画は、特殊能力を描いた物語ではなく、
“人と触れ合えることの尊さ”
を描いた物語だったのだと思う。
山田太郎の気持ち
人生で唯一の楽しみであった
我が子の誕生を花子の一存でなくされ
絶望から花子を殺害してしまい現在に至る
9歳の息子に出逢い、特殊能力まで受け継いだ息子に
最後は
花子が施設に子供を預けたと打ち明けていれば、と、
思わせてしまう
おもしろかったです
ヤマダタロウよりスズキタゴサクの勝ち!
頭の悪い私は何を語りたかったのか理解できなかった
佐藤二郎さんの演技も好きだしファンなんだけど
なんだか消化不良な映画に見えてしまった
脚本も佐藤さんとなっていて、長年温めてきた物語だとのことで
期待値は「爆弾」同等かその上を設定してしまったので
ギャップが大きすぎた
以下少しネタバレします
幼少期にお世話になったお巡りさんの子供が刑事になって・・・の
繋がりは皆の解説を聞かないとインパクトとして伝わりずらい
あのセリフだけじゃなく、幼少期の絡み方やキーワードなどを
もう少しちりばめればよかったのに・・・
ラストに自分自身に再会する(実は生まれていた自分の子)シーンも
唐突すぎてかつ、幼少期の主人公そのものすぎて「う~ん」
10歳だよな、9歳だよなのセリフもはっきり聞き取れず、これも
解説してくれる人の「解説」で「あ~そうなんだ」という程度
天に唾する、自分を生み出した「神様」を恨むことがすべてだったという
表現の仕方も「ということ~」と言っているようで安直で作品の締めとして
軽さを増幅しただけになった
ヤマダタロウの孤独や特異能力を持つ苦悩、大量殺人者になる
「スイッチ」についても響かない(納得感を感じない)
良い映画になりそうな雰囲気はいっぱいだったのに
残念無念
洋画一辺倒だった自分が邦画を見る機会が増えたのは邦画も面白い映画があるせ!と感じさせてもらったからだけど、堤真一さんが嫌いな役者さん第1号になったけど佐々木蔵之介さんが2号になった かれらに共通する演技の深みのなさというかセリフ回しの軽さというか・・・
まぁ、ファンの皆さんには悪いが私には合わない 画面に登場すればするほど
違和感しかない苦痛
邦画嫌いに戻りませんように・・・
佐藤二郎がまたやってくれました
「爆弾」の時の佐藤二郎はハマり役で、まさに「怪演」という言葉がぴったりでしたが、今回もそれに近い何とも不気味な役を演じてくれています。
ストーリーも、冒頭からいきなり人を刺すシーンから始まりますが、これが何の説明も無い上に、何と手に持っているはずの凶器が見えない。もう、この時点でワクワクなのですが、終始先の展開が読めず最後まで飽きることなく楽しませてくれます。
また、メッセージ性においても「見えない凶器」=「 言葉の暴力」、「名無し」=「匿名」ということで、SNSにおける匿名の誹謗中傷を痛烈に批判していて、見ようによっては、とても真っ直ぐで清々しい作品でした。
黒い空と絶叫
人に危害を加える事は決して許されない
だから、
自分はこの世に必要では無い、いや、存在してはいけない人間、、、
出口の見えないトンネルの中でもがいていた太郎少年が、自制していた忌まわしい右手を解放する。
犬という命に触れてみる。名前を知らないから大丈夫だ。しかし、園長さんが犬の名を話したことで、犬の命を奪ってしまう。
自殺を図るが、止められた上、自分を気にかけてくれていた警官の命を奪ってしまう
望んでもいないのに備わった特別な力、、、
出口の見えない真っ暗なトンネルから出られない、、、
子供を授かり、光が見えた、しかし、、、
太郎は真っ暗なトンネルを破壊したいかのように、無言の絶叫へと突き進んでいく、、、
とてつもない絶望の闇に取り憑かれた男の絶叫を表現した【佐藤二朗】
この映画から私が受け取ったのは
“名無しの絶叫”だ
それに尽きる
人それぞれにそれぞれの絶望があるだろう
【名無し】は【佐藤二朗】の絶望からの絶叫
彼が社会の中で生きていく上で《感じ取った?想像した?体験した?》絶叫が画面いっぱいに叩きつけられている、そんなパワーを感じた作品だった
表現方法や太郎の絶叫方法に賛否は分かれるだろう
私は、この手の作品を《エンタメ寄りに描いたり、もっともらしい理由をつけたり》はせず、作者の想いを映像に真っ直ぐ叩きつけてる事にこの作品の意義があると感じた
この作品は、殺戮シーンを楽しんでもらおうと描かれた作品ではない
【黒い空と絶叫の中で生きた男】
人を不幸に陥れる忌まわしい右手を殺戮に使った男は、もう一つの忌まわしい右手によって、ようやくトンネルから抜け出す、、、
忌まわしい右手は使う人の心次第で“善”になるのか?
忌まわしい右手を社会は受け入れられるのか?
『神様、暇ならば、手を繋ごう』
忌まわしい右手を持つ少年は神に唾を吐いた
“出口の見えない真っ暗なトンネルの中で生きる”
考えただけでも、背筋が寒くなる
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