名無しのレビュー・感想・評価
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評価が低いことが評価されていると感じる作品
名前がついた途端、無機質な物体にも命が宿ったように感じたり、愛着や個としての存在感が増すのはなぜだろう。
名前は親から1番最初のもらう贈り物だという。
そう考えると「名前」とは単なる呼び名ではなく、その人の存在を認め、愛情を注ぐ行為そのものなのかもしれない。
名前をもらえず、名前を知った瞬間にその命を消せてしまう能力を持って生まれた佐藤二郎さん演じる山田太郎。
彼の孤独や絶望は、私には想像もできない。
この作品を観て、「名前」があるということは、この世界に存在を認めてもらえた証のひとつであり、とても特別なものなのだと改めて感じた。
主演・原作・脚本を務めたのは佐藤二郎さん。
昨年の爆弾での評価もあり、興味を惹かれる人も多いだろう。
確かに、無差別殺人の犯人役ということもあり『爆弾』との共通点も少なくない。
しかし、この山田太郎は『爆弾』のタゴサクとは全く異なる人物だ。
タゴサクが言葉で相手を追い詰める知性を持った存在だとすれば、山田太郎はどこか精神的に幼く、言葉よりも表情で感情を露わにする。理性ではなく怒りや衝動で動く人間だ。
番組のインタビューで、佐藤さんが「この作品でとことん絶望を描きたかった」と語っていた。
確かに絶望だ。
摩訶不思議な能力を得て生まれたことで、真っ当には生きられない主人公は、不幸なんだと思う。
知恵がないから短絡な思考になるし、人とのコミュニケーションもうまくとれない。
そして佐藤さん自身が強迫性障害を抱えながら生きていることを思うと、この作品には「普通」や「当たり前」を持てない人間の視点が重ねられているようにも感じた。
周囲と同じように生きられない苦しさ。
理解されない孤独。
存在そのものを否定される絶望。
山田太郎の行動を肯定することはできないが、その根底にある孤独だけは痛いほど伝わってくる。
しかし、だからと言って彼がしてきたことはクズであり、到底許容も同情もできない。
だから私は、この作品の評価が決して高くないことに少し安心した。
この作品は、評価が低いことが一周回って評価されているような、不思議な立ち位置にいる作品だと思う。
もしこの作品を観て、山田太郎に共感したり、彼の行動を肯定したりする人が大勢いたとしたら、それこそ恐ろしい。
孤独は理解できる。
絶望も伝わる。
けれど、受け入れてはいけないものまで受け入れてしまってはいけない。
だからこそ、この作品の低評価にはある種の健全さを感じた。
『名無し』は、犯人に共感するための映画ではない。
名前を持つことの意味。
この世界で存在を認められることの尊さ。
そして、人が抱えるどうしようもない絶望。
それらを静かに見つめるための作品だった。
黒沢清監督等の平成ホラーに似た懐かしさ。右手の設定は中途半端か
佐藤二朗が書いた脚本で、自ら映画化のため売り込むも難航するうち先に漫画化が決まり、遅れて映画化が実現したという経緯の作品。感情が見えにくいキャラクターが淡々と人を殺していく感じは、黒沢清監督の「CURE」(1997)や三池崇史監督の「殺し屋1」(2001)など、元号でいえば平成中期頃のJホラーに似た懐かしい趣を感じた。
佐藤演じる連続殺人犯の右手に特殊な能力があり、それがストーリーを牽引する。資料には「右手の三原則」と説明されていて、第1の触れたものが見えなくなる、第2の命あるものに触れると死ぬ、は本編を観ていれば容易にわかる。ただし第3の「名前を知らなければ効かない(助かりたければ決して名乗るな)」は、本編だけだとわかりづらいし、そもそも名前を知らない相手でも見えない凶器で殺すのだから、中途半端な設定に思える。終盤で第3の設定を知っていればなるほどと合点がいくシーンもあるが、気づかなくても特に問題ない。
佐藤二朗の怪演は見ものだが、主人公がやることは近くに居合わせた罪なき人々への無差別殺傷で、幼くして遺棄された過去や右手の特殊能力が効果的に活かされたとは言い難い。たとえばこれが、女性を食い物にする悪徳政治家だとか、身寄りのない子を人身売買する反社の幹部とか、貧困ビジネスを仕切る経営者といった連中を次々に抹殺していくダークヒーローの話だったら、社会悪にリベンジするカタルシスや共感度が加わったのではと想像する。
もっとも、そんな単純なリベンジではなく、理不尽で圧倒的な暴力そのものを描きたかったのかもしれないし、この寓話風のストーリーをどう受け止めるかは観る人にゆだねられているのだろう。
〜 こちらは残忍 〜
少し前に、爆弾の怪演が記憶に新しい佐藤二朗。この作品は観てから気がついたが、何と彼自身が原作者。もはやマルチな才能という言葉では説明できないような存在。
で、爆弾のようなサスペンス系の話かなって先入観で観たが、結構こちらは残忍。救いが感じられない。
残忍系がダメな方は、観るのはちょっと気をつけたほうがよいかも。面白いとか感動とかって路線にはまずない。ただ、常人には理解されない不可思議なギフトを持って生まれた者の苦悩、それに関わる人々の人間模様、巻き込まれた人達の不幸、何かほんとに救われない。因果応報的な展開はよくできてるなとは思ったが。かなり好みが分かれる。
謎が謎のまま話が展開していくところは気にしないほうがいいのかも。
絶望
育児放棄された身寄りも無く、名前も無かった山田太郎(佐藤二朗)が、極めて無差別殺人的な大量殺人をしてしまう。只、無差別では無いのが自分と同じ様に名前の無い(知らないも含む)ものにはその手は及ばない。
まるで、太郎の内なる声を現した様なその右手は、一体何を言いたかったのだろう。
佐藤二朗さんが書いた脚本。
昨年「爆弾」でも悲しい狂気を演じられ、圧倒的な存在感を見せ付けられた。今作の主人公は途轍もない絶望とでも言う様なギフトを与えられていたが、更に負荷のかかった狂気を追及したかったのだろうか。
演技は言うまでも無く佐藤二朗さんの拘りが伺えた作品だった。
いちおう観といて良かったかな、!??
マジックハンド
真昼間の喫茶店で連続殺人事件が発生した。防犯カメラには、犯人と思われる坊主頭の中年男が映っていたが、男の手には凶器はなかった。男が右手を動かしただけで人が血を吹き出して倒れるという異様な光景が記録されていた。捜査を進める中で、坊主頭の男が11年前に万引きの疑いで調書を取られた山田太郎と同一人物であることを突き止めた。山田の自宅に急行した捜査員が目にしたものは、腐敗した女性の遺体だった。さらに、連続殺人事件は続き・・・そんな話。
右手で触ると生きてる者は死に、物は消える、というファンタジーなのか?
中年男が、自分の子供を楽しみにしてたのに、花子にその楽しみを奪われて狂った、ということなのだろうが、非常にわかりにうい。
あの子供の山田太郎と大人の山田太郎(佐藤二郎)は同一人物だと思ってたが、ラストはどういうこと?
国枝は死んだ警官の子供という設定?
よくわからなかったが、そこそこ面白かった。
山田太郎役の佐藤二郎は歯並びの悪さが際立っていて、相変わらずの気持ち悪さだった。
本日のお題。「無敵の人」が本当に「無敵の人」だったら??
基本的には、そういうネタ映画なんだと思う(笑)。
別の言い方でいうと、観客に対して、どこまでも「露悪的」な映画なんだろうね。
原作を書いた佐藤二朗本人は、「当たり前のことに冷や水をかけるようなことをやりたかった」と、パンフで仰っていたけど。
たぶん冷や水をかけたいターゲットは、自分のことを善良な人間だと考えていて、正義の存在を素直に信じていて、物語にもある種の「安心」を求めているような「顔のない大衆」。
そういう連中(多分、佐藤二朗は内心こいつらみんな●ねばいいと思っているw)めがけて「単純にイヤな気持ちにさせること」それ自体が、やりたいことの中核にある。
そういう映画なのではないか。
「なんの罪もない一般人がいきなり災厄のように殺されまくる」バツの悪さ。
「その犯人を必ずしも絶対悪として描かない」バツの悪さ。
かといって、そこまでお涙ちょうだいにするでもなく、シリアスな部分を思索的に深めるでもなく、どことなく「さくっと」「からっと」敢えて「安直に」仕上げてある。
このB級感とか、志の低い感じ(笑)とかが、映画.comで3点台付近をうろうろしている理由のひとつであろうし、さらにはまさに「冷や水を浴びせられた」層(ここで映画評とか書いてるような手合いを含むw)が、ふつうにいらっと来て反発を示し、低評価をつけた部分もあるだろう。
逆に言えば、世間からイマイチ評価されない部分や、一部のまともな層から叩かれる流れも含めて、現状は佐藤二朗の目論見通りなんじゃないかな、とも思う。
賛否両論ではあっても、だいたい狙っている着地点には、ちゃんと立てている映画なのではないか。
僕は、同じように「しれっと殺人鬼や食人族が出てきて」「罪があったりなかったりする一般人が、意味もなく殺されたりなんとなく助かったりする」ジャック・ケッチャムの小説群(『隣の家の少女』『オフシーズン』『ロード・キル』など)をこよなく愛する人間であり、こういう悪意が「天災」のようにパンピーに牙をむいてくるお話は基本大好物なので、『名無し』もまた大変楽しく観ることができた。
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本作の脚本は、主演の佐藤二朗本人の手になるものである。
佐藤二朗という人は決して、福田雄一に発達系コミックリリーフとして使い潰されるような俳優ではなく(笑)、本当はやろうと思えばどんな役でも出来る、鋭い知性と演技への情熱と入念な役の作り込みを兼ね備えた、一流の演技者である。
最近の佐藤は、トリッキーはトリッキーでありながらも、より深みのある役柄が回ってくるようになり、『爆弾』での怪演で、ある意味、業界の中心的存在へと上り詰めた感がある。
そんな彼が自ら着想し、映画化に向けて動くがなかなか決まらず、その後まずは漫画化することに成功し、こうやって自ら脚本・主演で映画化するところまで漕ぎつけたのが、本作『名無し』だ。
出来栄え云々はさておくとしても、俳優が自らの作りたい企画を力業でプロデュースし映画化していく流れは、まさにこの50年くらいのハリウッドの傾向でもあり、ようやくこういう映画が日本でも出てきたかとも思う。
昔から日本では「大俳優が自分の主演作品を撮るために映像会社を立ち上げる」こと自体は、三船プロとか石原プロとか中村プロとか勝プロとか、それこそふつうにあった。ただ、脚本も書ける劇団上がりのマニアックな俳優が、自分のホンで映画を撮ろうと情熱を傾けるような流れは、意外になかったような気がする。
欧米でいえばこういう例は、ウッディ・アレンとか、さかのぼればエリック・フォン・シュトロハイムとか、オットー・プレミンジャーとかいろいろあって(佐藤二朗自身はパンフでマット・デイモンとベン・アフレックの名前を挙げている)、最近だとハリウッドの一流俳優は、監督業まで手を出さないと大成していないような雰囲気まであるからね。
日本でも賀来賢人がプロデューサーとして映画を作り始めたり、ゆりやんレトリィバァが監督をやったりと、「演じる側が作る側へと積極的に関与していく」流れが生まれ始めている。佐藤の挑戦が、こういった潮流に勢いを与えてくれればと、切に願う。
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『名無し』の脚本の初稿は、5年前にはあがっていたらしい。
発想の源流にあるのは、おそらく片山慎三監督とつくった『さがす』(22)ではないか、と僕は思っている。
『さがす』は22年の公開ではあるが、ネットで調べてみると撮影期間は2020年春ごろの約2か月間ということだ。さらに片山監督からのオファーと脚本が佐藤に届いたのはそのずっと前のはずだから、やはり『名無し』より前に『さがす』があった、と考えるべきだろう。
両作には、観ればわかるとおり、いろいろな共通点がある。
●極度の貧困のなかでぎりぎりの生活を送る「棄民」の存在。
●「名前」を喪った主人公(『さがす』は西成が舞台。本作は遺棄児童)。
●凄惨な暴力を突破口に、閉鎖状況を突破しようとする展開。
●犯罪的気質と発達傾向をオーヴァーラップさせる意欲的な踏み込み。
●貧困家庭における結婚、妊娠、出産の問題。
●捨てられた子供のサヴァイヴァルと、親との向き合い。
●佐藤二朗が演じるキャラクターの外見、性格、行動。
●佐藤二朗がふりまわす金づち。
●『さがす』における佐藤二朗が演じていないほうの連続殺人鬼の通り名が、まさに「名無し」。
ね? 影響関係が「ない」と言い張るのは難しそうだ(笑)。
とくにトンカチを豪快にスイングする二朗さん見ちゃうと、「あああああ!」っと思っちゃう。あれはやっぱり、佐藤二朗による片山慎三監督に対する挨拶というか、メッセージみたいなもんじゃないのかな。「悪いけど、いろいろ使わせてもらったよ!」っていう。
パンフを見ても言及がないから、佐藤本人としてはあまり触れられたくないことなのかもしれないが、明らかに『名無し』は自らの主演した『さがす』にインスパイアされた作品だ。
あの映画の「西成の親子の絆」といった「じゃりン子チエ」風の人情噺的な部分と、社会問題に対する思いがけず深い洞察といった要素を抜いて、代わりに「神の右手」(望まぬ異能)というSF的(伝奇的)要素と、ある種の吹っ切れた俗悪さを付け加えたのが『名無し』という映画だといってよいのでは。
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突然付与された異能、というテーマは「弱者の抵抗を描く」物語においては常に王道である。
「右手に付与された」パターンに限定しても、二けたは過去の事例が思い浮かぶ。
まずはなんといっても『とある魔術の禁書目録』の上条当麻。それから楳図かずお先生の『神の左手 悪魔の右手』。『寄生獣』のミギーだって、右手だからミギーなわけで。
他にざっと思いつくだけでも、『必殺仕置人』の念仏の鉄、『コブラ』のサイコガン、『幽遊白書』の飛影「邪王炎殺黒龍波」、『スクライド』のカズマ「シェルブリッド」など、右手が特別なスペックとして機能する例は枚挙にいとまがない(ちなみにぬ~べ~先生の鬼の手は左手ですw)。
『名無し』の場合は、「触ったものを見えなくする/触ったものの命を奪う」能力。
厨二病系における「透明化」と「触れたら即死系」の掛け合わせとでもいおうか。いっちゃあなんだが、ほぼほぼ「無敵」である。
本来なら、セカイの救済者になったり、ジャスティス・リーグかアヴェンジャーズに入れるくらいの異能だと思うのだが(笑)、頭と育ちが悪いためにうまく活用できず、自ら能力を封印したあげくに最下層の暮らしに汲々として、最後の最後で爆発しての憂さ晴らしをするにせよ、無差別殺人くらいしかやることが思いつかない、という体たらく。
「異能者の悲哀を描く」といえばデイヴィッド・クローネンバーグ監督のお家芸だが、彼の生み出す主人公は、望まぬ異能で人を殺めることに傷つき自壊していくことが多かった。一念発起して街で人を殺しまくる山田太郎の「どうしようもなさ」は、クローネンバーグの描く「悲哀」とは一線を画している。
やっぱり、持って生まれた才能をちゃんと生かすには、本人の側に「一定の知性」と「努力できる才能」と「最低限のコミュニケーション能力」と「相応の教育」だけは、なんだかんだで必要なんだな、と思わされる事例である。
基本的には、人がバタバタ死ぬのも、佐藤二朗がうーうーうなってるのも、佐々木蔵之介が吼えくるってるのも、MEGUMI(小汚すぎて初見で誰かまるでわからなかった)の野獣キスも、どれも面白かったし、総じて楽しめたのだけど、一方で全体的になんとなく設計が緩いというか、ロジックとして適当な印象は否めなかった。
個人的に一番納得いかなかったのは、「触ると見えなくなるルール」それ自体ではなくて、映画版において監督の意向で付け加えられたらしい、「鏡面や水面には、持っているものの姿形が映る」というオプション・ルール。
持ったら人の目から見えなくなるものが、鏡になら映るというのであれば、光の反射の原理は一緒なんだから、防犯用のヴィデオカメラにも映らないとそこはおかしいんじゃないですかね?? ドラキュラの姿が鏡に映らないのは、「見えてはいても実体がない」からだと思うけど、この場合はその逆で、「鏡面や水面に映る」のなら「ヴィデオにも映る」のが筋なのではないかと。
他にも、凶器が映っていないだけで、山田太郎の行動によって相手が殺傷されているのは確かなんだから、この映像だけで逮捕要件としてはもう十分なんじゃないかとか、「あの見えない凶器で次々と民間人を殺戮する映像」をさんざん観たはずの刑事たちが、あんなにも無防備に山田太郎に近づくのはさすがにまずい(というかとんでもなく頭が悪い)んじゃないかとか、いろいろ思うところはある。
山田太郎がテロの元凶であることはどこからどう見ても「あきらか」なのに、まわりの群衆が「凶器が見えない」というだけで彼の存在を「全然気にも留めない」(そのせいで不意打ちで殺されまくる)なんてことがあるんだろうか、とも思う。ふつうは「なんか怪しい危険の中心部からとにかく遠くに逃げようとする」のが、危機に直面した一般人の群集心理なのでは?
とはいえ、それだけ山田太郎が人間として希薄な存在――もっというなら「無意識のうちに目を逸らして回りが見ないふりをしている存在」だからこそ、この物語は成立しているともいえる。「凶器を振り回していても気づかれないくらい希薄な存在――無警戒・無関心のどん底に棄て置かれているような人間を、世間が生み出してしまっている」という「棄民への懸念」が、この映画の核には間違いなくあるからだ。
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●城定監督は前前作『嗤う蟲』で認識したが、相変わらずの職人監督という印象。『嗤う蟲』で書いた「B級娯楽映画の枠内で、なるべくリアリティラインをあげて組み立てようとしている」という評は、本作にもほぼそのまま当てはまる。ちなみに「JOJO」って苗字、本名なの? すげーな。
●やけに顔の濃い(たいした役じゃないのに)異様に目立ってるオヤジがいて、誰かと思ったらまさかの大高洋夫だった!! いまこんなクセツヨオヤジになってんのね(笑)。
●丸山隆平の演じた警官は基本的に善意の人として出てくるが、「名無し」が本当にこの物語で「業」として機能しているのなら、彼がちゃんと山田太郎と花子に「本気で考えた名前をつけていたら」後々こんな展開にはならなかったのかもしれないよね。
●ラストに出てくる子供について、他のレビュアーの方が「若い頃の自分の幻影」ないしは「神様」と解釈されているのを読んで、ああそういう考え方もあるのか、と思った。
個人的には「花子はああは言ったけど、やっぱり産んでたんだよな。そりゃあれだけ臨月になって実際はおろせるわけないもんね」と、なんの疑問も持たずに「息子」だと思って観ていたんだけど(そう思った観客もきっと多いのでは)。単純に、息子と「神の右手」バトルやったら負けちゃったみたいな。
まあ、あれだけの数の人間を殺戮した「正真正銘のクズ」としては、むしろ救済に近い最期だったのではないでしょうか。
悪いことなどない
「爆弾」以来軽く佐藤依存症。
まあ、ヤヴァイ方の佐藤演技ですね。あくまでも。
で、そのヤヴァイ方の映画がまたリリースされるという。
次の休みにでも行くか、レヴューなど眺めていたら賛否両論。
「マズイ」と急いでシネコンに向かった。
今日この頃、動員がちょっとでも微妙な作品は即終映になってしまい、見逃してしまうと配信を待たなくちゃいけないってことになるのだ。
のんびり出来ないなあ。
山田が、まあ殺しまくる。
右手が上下左右に振れる度に、ズバズバ血しぶきがあがって阿鼻叫喚。
女性だろうが子どもだろうが容赦なく、まして爺様になんて情けをかけてくれるわけもなく死体の山である。
血塗れの現場に仁王立ちした山田氏がニマッと笑う。
これ本当に演技?まじめに楽しんでない、とか思って佐藤二朗様のアップだけで90分見てしまった。
ただし映画とみると、物語として完成していないのではないかという点がままある。
子ども時代を省いて「キュア」風に正体不明の殺人鬼でいいんじゃないか、もっと刑事さん視点で「羊たちの沈黙」系に盛り上げてもよかったのではないか、社会の方に問題を押し込んだら「ジョーカー」や「アメリカンサイコ」行けたんじゃないか、殺しまくりじゃなく、ボディカウントをもっとしつこく描けばジェイソン行けたか、といろいろ考えたけど、これでいいやと思った。
フィクションの中の殺人と現実のそれは別物である。
もちろん殺される側の事情を描き込めば、本物の死に近づくが、「名無し」にはその意思はないようだ。シルベスタスローンのようにかっこよく殺人するわけでもない。
「名無し」の殺人は「禁忌」であり、やってはいけないことの象徴だろと勝手に解釈。
決まり事に囚われすぎる人が一定数世の中にいて、
そういう人には辛い時代かもしれない。
世の中、訳も分からず守らなきゃいけないルールが多くなりすぎたのだ。
私もその傾向ある人なので、やってはいけないことが淡々と果たされていくたび、不謹慎ながらホッとしたりする。ああ、これは現実ではないのだ。
佐藤二朗氏もそういう子供時代を送ったとどこかで語っていたそうだ。
となると、この映画で一番救われたのは脚本家兼主演男優かも知れない。
作家の苦悩を映像化したという意味でアートムービーといってもいい。
もう少しミステリー要素があるのかと思いきや、サイコ要素多めの血と死...
もう少しミステリー要素があるのかと思いきや、サイコ要素多めの血と死体だらけの映画だった。佐々木蔵之介の役だけは過去との繋がりを見せるストーリーがあるけど、ほぼ無理な世界だった。
爆弾での佐藤二朗さんの演技が素晴らしかったからチト残念ではある。
名無しとは何者だったのか。
正直、一切の感情移入ができませんでした。
ただ「何を伝えたいのだろう」とひたすら考察をして鑑賞していました。
内容は楽しいものでは決してないし、心が温まる展開はまずないです。スプラッタが苦手なら見ないほうがいいです。
しかしながら、自分は自分なりに考えることができたし、感じることが多い映画でした。
冒頭のショッキングなシーンからはじまって、その動機や起因を過去と現代で追いかけていくような構成なんだろうと思いながら物語を消化していましたが、明確で具体的なセリフはほぼなく、ざっくりとした事象ばかり描写されていきます。
そもそも「名無し(山田太郎)」が主人公にも関わらず、大した個性らしい個性もなく、知的に遅れがあるが特異な能力を持っているという「設定」が歩いているだけの人物描写で、彼の背景がほとんど見えずかなり不気味です。
これについてはおそらく意図的に感情移入ができないようにしてあるんだと思いました。
なので、ただの猟奇的殺人鬼の一生にも見えるし、虐げられた社会的弱者の復讐のようにも見えたので、鑑賞途中で「なにが人間社会への絶望へのトリガーになったのか?」と展開を予想していたんですが、いよいよ、そこに至る動機や経緯が明かされると、劇中セリフにもある「ただの◯◯だ」と言わざるえない主人公に、当たり前に同情できず、挙げ句その動機すら主人公の先走りだったんじゃないか?と解釈できるオチが待っていて「さすがに救いがなさすぎる、これを観せてどういう感情を生み出したいんだろうか」と考えながらエンドロールの音楽を聴いていました。
私なりには、
昨今の「あまりに自分勝手で短絡的かつ非道で残虐な事件ばかりの現代社会への風刺」と捉えれば、山田太郎という匿名(=名無し)にも近い存在が、凶器が見えない狂気を繰り返してもいてもほとんど誰にも知られないままに、野放しされていたという、ある種のファンタジー的な展開にも意図があるように感じました。
名無しは無害でいようとしたけど無敵の人になってしまった哀れな人にも見えます。
自分の境遇を悲観するだけで、努力もせずに他責を繰り返す利己的なクズにも見えます。
同じ空を見ていても、そうならなかった人がいる以上、たとえケーキを切れない非行少年だろうが、やってはいけない行為に手を染めた時点で同情の余地はありません。
もしも山田太郎に共感できた人がいたなら、きっとお疲れなので、すぐに精神カウンセラーに相談をしたほうがいいです。
もしも名無しが掴んだのが救いの手だったとしたら、
人生甘えてんじゃねえと言いたくなる話でした。
出演者さんたちの演技がみどころ!!
理不尽な殺戮
原作未読。佐藤二朗さんが演じる山田太郎が、ひたすら善良な市民を血祭りに上げていく内容でしたが、やっぱり納得がいきません。
よく分からなかったのが、ラスト山田太郎が瓜二つの少年と右手で握手しますが、あの少年は山田太郎ではなかったのかな?
右手の命の消失の設定ももう少し分かりやすい説明がほしかったです。
無差別殺人の動機は何だったでしょうね。右手が使えない魂の叫びだったのでしょうか。
誰にでも夢をもつ権利がある、その夢が知らぬ間に壊されていたら…
この映画では、右手の力になった理由は語られていない。
この映画は、シリアルキラーがテーマの本質ではない。
この映画は、犯人逮捕の刑事ドラマのはずがない。
この映画は、佐藤二郎の凶演を見るためのものだろう。
どう解釈するのか、は自由であるが。
無差別殺人をする現代と、幼い頃の時代が語られる。
幼い頃は自身の力は理解しているが、表に出ないように堪える。(本当は他人だが)妹がそばにいるから。それでもたまには出てしまう。知らなければ良いが、名前を知ると動物は白目になって死んでしまう。
それでも今まで二人は生きてきた。
でもなぜ、今サイコが目覚めてしまったのか。
他人に決して見せてはならない力、不自由な生活しかできない。(他人だが)妹との間に生まれた命。死産だったのか、もうすぐ10歳の誕生日。しかし知ったしまった事実。妹が隠していた事実。
唯一の夢だったものが、今が破れる。
しかし、さらに違う事実もあった。
児童養護施設。
ラストの担架に乗せれれた名無しと子供との握手。
右手に銃弾を受けていた。
助かった子も運命(さだめ)には逆らえないのだろう。
最後、エンドロールの曲が良い
コミックを読んでから鑑賞したので、なるほど、佐藤さんは警察官じゃなくて山田のほうなんだ?と違和感があったが佐藤さんの怪演にどんどんと引き込まれていきました。
右手の設定や、終わり方はコミック同様にまぁ、よくわからんけどそうなんや?とスッキリするような内容ではないので、低評価にされる方も多いとは思います。
ただ、最終のエンドロールの歌で全部回収されるというか、納得はできないけど感覚としてストンと入るような、、
多分エンドロールがもし違ったら評価も変わったかもしれません。
脚本:佐藤二朗を知ってたら見てなかった
設定も脚本も中途半端。右手の設定があやふや。何で鏡とか水たまりには映るのか、この原理なら防犯カメラにも映りそうなものだが...。
あの状態の主人公が普通に働いてるのも違和感。どうやって就職したん?
最後に暴れるシーンで子供の頃の自分(神様?)が目の前に現れるけど、他の人がその子の実在を確定させちゃうシーンがあるから、確保された主人公と右手をつなぎ合うシーンの違和感がヤバい。大事な被疑者ほったらかしにせんやろ。主人公にだけ見える演出だったらそれ程無理のないシーンだったのに残念。
ただのバットで殴っただけなのに血が飛び散る演出とかも違和感しかないし(飛び散らせたいなら釘バット使うやろ)、何もかもが考えが足りてない。
唯一良かったのは福田監督じゃなかった事かな。福田組の佐藤二朗は見れたもんじゃないから。
もし神様。暇してるなら、俺と手を繋ごうよ
見飽き感のある通常運転のホワイト佐藤二朗ではなく、こういうブラック佐藤二朗もたまにはいいが、特殊能力を持つ設定自体が、受け入れるのに整理がいる。本来、その右手を一生隠して生きていくことは難しいだろうし、せめて障碍を偽装して手袋を常備しているとかの細工はしてた方がいいんじゃない?と思う。ほかにも、警察は捕まえられないまでも犯人特定くらいできるでしょ?、近所で大漁殺人事件が起きていながらイベント開催ってどうよ?、とかけっこう無理がある。
だけどね、やっぱし最後の説得力が半端ないな。国枝のあの言葉に震えた。どうなったんだろ、あの少年はと思ってたものな。必死の国枝を見て、ああお前だったのか‼と涙が出た。
そして太郎だけに見えた少年時代の自分の幻影、と見せかけて、あれは神様なんだろう。もう、特殊能力設定があるなら何でもあり。あれは、人間の姿を借りて現れた神様。じゃあなんで神様は「太郎」という創造物を作ってしまったんだ?という怒りにも似た思いが湧く。「太郎」は神様として失敗だったのか?、失敗ならもっと早く処理しなかったのか?、人間社会を混乱に陥れようとした悪戯なのか?、といろんな想像が働く。たぶん、制作側はそこまで意図はないだろうけど。最後に天に唾することが、どこか歪んだ現在社会に対する不満、神様に対する皮肉にも見えた。
天使の悪魔
特殊な右手
佐藤二朗の右手の特殊能力触ると物が消えたり生き物は死んでしまったりが分かりずらかった。
最後までMEGUMIの立ち位置が分からなかったし能力あるのかと思いきや普通の人だった。
あんなにお腹膨らんでたら中絶は無理ですよ(>_<)
何処かで産んだのでしょうその子も特殊能力あるという設定。
子役達はミステリアスで良かった(^.^)
丸山隆平も助けてくれたけど事故で亡くなってしまうし残された子供可哀想。
佐々木蔵之介のキレてる演技も浮いてる感じがしたここまではいないでしょ。
佐藤二朗脚本見えない武器で殺していくのは武器を薄くして映すだったら分かりやすかったかな?
佐藤二朗のアップがやたら多くて江面的に汚い(失礼)爆弾の時より数倍多かった。
爆弾も犯人役だったけど←の方が面白かった
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