トイ・ストーリー5のレビュー・感想・評価
全105件中、1~20件目を表示
バズ・ライトイヤー軍団に栄光あれ
冒頭、一体何をする気だと思ってしまった。穿った眼で見れば、こんな取って付けた伏線はないと思った。この新型バズ・ライトイヤー軍団はどんな役割を果たすのだろうか、と。
取りあえず、リリー・パッドの登場でデジタルパワーに翻弄されるオモチャ達。正直、その対決構造が主題だと思ってた。デジタルが悪者で、伝統のオモチャが子供の想像力を育てる正しい遊びを与えるものだ、みたいな論法になるのだろうと思ったし、その予想通りの展開。
かと思えば、デジタル機器にも栄枯衰退、自然淘汰あり、捨てられては消えていくのも、これまでのオモチャ同様。時には悪さもして、付き合い方次第で便利な味方。そして和解して大団円。短めの映画なので、その辺の展開がトントン拍子。そんな中、最高なのは冒頭のバズ・ライトイヤー軍団。
バズもデジタルの波に漏れず(忘れられなくてよかったね)まさかのWi-Fi搭載、そしてアップデートでドローンになるとは恐れ入った。ファームウェアの開発が遅れていたのかな? 本物同様、無限の彼方に飛んで行けるのでしょうか。法的に大丈夫なのかな? そしてクライマックスの大活躍。いやあ、オモチャの哲学よりも、こっちの方がなんだか感動した。
そして軍団は解散。寂しげな子供達の手に渡り、オモチャとしての本分に帰って行く。ジェシーも然り、キャンプ場で拾われたことを受け入れた軍団の一人と同様、子供達と共に生きることがなによりもオモチャの幸せなのだと。映画で大事な冒頭を任された故に、こっちの方が本編に思えてきた。
それはそうと、ウッディの活躍が思い出せない。ああ、バッテリー切れの作戦を発案したんだったかな。もしかしたら、出なくても良かったのでは・・・ま、まあ、既にジェシーに世代交代した後だということで。
ジェシー救済の物語
賛否両論のトイストーリー4から5作目はどうだろうかという期待にきちんと応えた作品
冒頭のジェシーの過去でまず涙腺が緩んで、ボニーが友達にからかわれてジェシーを手放す時に涙腺が決壊
そしてトドメの一撃でリリーが娘にジェシーの名前をつけていたという事実で涙が止まらなかった
おもちゃはいつか飽きられてしまうというトイストーリーのテーマに1つの答えを提示してデジタルも否定しないという素晴らしい決着だと感じた
ボニーの成長を見られたのもとても良かった
ありのままで良いのってなんてあったかいセリフなんでしょうか
唐沢さんの声が若干枯れてた気がしますが、おじいちゃんになったウッディに合わせた演技なのかと思いました笑
これ以上泣くとアレなんで、6を作るならギャグ全開のザーグとバズの戦いとかにしてください
受け入れられない…
4に引き続き、1〜3までのトイストーリーとは違った作品で、見ていて辛かったです。
最も辛かったのはキャラクターの性格が変わってしまったこと。
バズは自分の考えがなく、ただジェシーの言うことを聞いてるだけになってました。2でみんなの反対を押し切ってウッディを助けに行ったバズはどこへ…。久しぶりに再開したウッディといがみ合うのもすごく違和感がありました。
またレックス、ハム、スリンキーなどの準主役キャラの活躍は全くありませんでした。2、3のみんなで協力して問題を解決する様が好きだったのに…。
ウッディさえもあまり活躍していませんでした。リーダーシップのあったウッディ像が崩れた気がします。
このほかにも納得できないところが多々あり、終始モヤモヤしてしまいました。終わり方は良かったですが、ボニーはウッディで遊ばなくなったため、結局他のおもちゃたちもすぐに遊ばれなくなってしまう可能性があると考えてしまい、全く安心することができませんでした。
I knew you
ジェシーの伏線がうまく回収されていました。
自分の名前つけてくれるなんてさ、よかったね。
ウッディは今回は3枚目役、30年も経ってればおじさんにもなるよね。ピカーンと光ってたのは笑った。
コンバットカールが出てきたのが胸熱でした。
ボニーは人見知りだったね、アシストしたのはおもちゃたちだけど、話しかけることができてボニーの成長も感じられたのでした。
曲の歌詞がそのまんまジェシーとエミリーのお話のようで映画終わった後もしみじみしています。
トイ・ストーリー・リニューアル
「トイ・ストーリー」がずっと描いてきた子供対おもちゃ、という二者間の関係性は、「4」でカラカラに絞りつくしたので、大幅リニューアルしての「5」。
私としては「3」でウッディーが「おもちゃがいらなくなったのは、その子が成長したということだ、それはいいことなんだ」と言って(泣けました)、捨てられるのはむしろ本望、おもちゃの使命に誇りを感じながら、避けられない別れを笑顔で受容するところで終わって良く、「4」はディズニー・ピクサーがドル箱手放したくなくてだらだら続編作ったんだ?な感じで、とりあえず観たけどやっぱ「4」はいらなかった。
そして「5」は、「4」までの関係性から軸をずらして、アナログvsデジタルのおもちゃ同士の対立構造、からの、子供世界の激変を描く。そして、結局のところ、アナログだろうがデジタルだろうが、子供に寄り添って幸せにするものが「おもちゃ」だ、という括りで「おもちゃ」の再定義がなされる。大変巧妙で感心しました。
せっかくウッディが「3」で決着をつけた、おもちゃとの「別れ」問題なのに、本作では宙ぶらりんに戻ってしまった。捨てられたか忘れられたおもちゃたちは一様に「かわいいあの子」が戻ってくるのを待っていて切ない。「5」に三つ目のエイリアンが出てこないが、彼らはすでに淘汰されてしまったのかも。ジェシーは過去に経験した捨てられる辛さを切々と訴え続ける。「愛して愛して私を愛して」攻撃がいつの間にか「一番はあの子の幸せ」に変化してはいくし、過去に自分がとても愛されていたことを知るエモいところもあるが、ジェシーは捨てられずにまだまだ遊んでもらえそう、彼女の、「捨てられること」の受容は先送りだ。
なんで先祖返りみたいなことにしたのか意図は良く分かりませんが、「3」の流れの延長上だとおもちゃが悟りすぎててタブレットが来ても軋轢が生まれずハナシができないからですかね。
というか、「3」で宣言されたおもちゃの宿命が子供には痛すぎたので、「捨てられる子もいるけど、ジェシーやバズみたいにずっと遊んでもらえる子も、忘れられていたが復活、大活躍する子もいる」とマイルドにしてみたんでしょう。
ハイテク・バズには笑った。こういうのを生み出すんだからさすがピクサーです。
スペース・レンジャー、優秀な軍人らしく一糸乱れぬ集団行動がめちゃめちゃ笑える。
そして、アプリをダウンロードしてドローンに変形する最新型バズは、もはや子供のものではなく「大きいお友達」向けのものでしょう。今やおもちゃは、子供が遊ぶものから大人が目を輝かせて買うもの、になりつつあるみたいです。おもちゃの世界も激変しているんですね。
SNS上のいじめや、どこにいようがすぐに反応しないと仲間外れになる恐怖からますますデバイスが手放せなくなる現代の子ども事情をさくっと取り入れる。犯罪に巻き込まれることもあり、オーストラリアでは子供のSNS利用を禁じる法律もできたくらいの、グローバルな社会問題だ。
デジタルおもちゃは使いようです。良くも悪くもなる。
デジタルネイティヴの子どもたちは、ゲームを媒介にして人間関係作ったりもしてました。
昭和世代の想像よりずっと上手く人生に役立てて るように見えます。
子供世界は激変しているが本質は変わらない。
友情は、トイ・ストーリーのキモ。
「ちょっと変わった子」のともだちの作り方など、ディズニー・ピクサーの真骨頂かも。
ちょっと変わった子は浮きがちで悩みも多いが、視点を変える、居場所を変える、周囲の大人やおもちゃたちのちょっとした助けがあれば、素の自分が意気投合できる友達に巡り合うチャンスが広がる。出会ったら、受け身でいてはダメ、少しの勇気を出して自分からも一歩踏み出すこと。幸せは自分で掴みに行け、というアメリカ映画らしい前向きメッセージ全開で、うれしそうな仲良し二人組の女の子を見ていたら、多幸感で一杯になりました。
基本はらはらドキドキ、笑いのセンスが素晴らしく、人生の苦みや教訓も若干加えて、最後は幸せな気持ちになるような、すべての年齢の人たちが楽しめるエンタメでした。
うちの息子たちはものごころついたころからDVDによる「トイ・ストーリー」シリーズの英才教育を受けており、シリーズと一緒に育ったようなもの。
小さい次男が回らない口で「おれがちゅいてぇるじぇーー」と歌ってた「君はともだち」(by ダイヤモンド☆ユカイ)は、もう使われないんですね。
息子たちにせがまれて繰り返し観た(観せられた)のは当然吹き替え版。
ウッディーとバズは唐沢さんと所さんの声でインプットされているので私もダンナもいまだにトイ・ストーリーは吹き替え版観てます。
前作からは見事に救済されたが、「3」の壁は高い
【総評】
結論から言うと、『4』よりは断然面白いが、傑作とまでは言えない、というのが正直な感想。
そもそも『3』がおもちゃの物語としてこれ以上ないほど完璧な大団円を迎えていたため、それ以降の続編はどうやっても「蛇足」に見えてしまうという大前提がある。本作はその高いハードルを越えるほどの爆発力は持っていなかった。
■良かった点(見事な軌道修正)
まず評価できるのは、前作で批判を浴びたボー・ピープがほぼ出ず(批判を真摯に受け止めたのだろうか…)、おもちゃ本来の在り方に軌道修正されていた点。ボニーが別のものに興味を移す心理描写も世代を問わず共感でき、最後はおもちゃを大切に遊んでくれる「ブレイズ」という真の友達に出会えて救われる展開はとても良かった。
また、「おもちゃvsデバイス」という対立構造だけで終わらず、お互いを分かち合い協力する着地点を見せたのはピクサーらしい温かさがある。
何より、テクノロジーの進化で「バズが本当に飛べるようになる」という1作目のセルフオマージュには胸が熱くなった。
■気になった点
一方で不満点も多い。「おもちゃvsデバイス」という題材自体が今更すぎるというか、少し安直で予想の範疇を出ないストーリー構成だった。
全体的にスケールが小規模にまとまってしまい感動しきれず、唯一派手だったバズ軍団の参入も意図がよく分からなかったし、ギャグシーンも弱く感じた。
そして、作中のハイライトっぽく描かれていた「かつての持ち主エミリーが、自分の子どもに『ジェシー』と名付けていた」というシーン。これも、正直そこまで感情移入できず薄味に感じてしまった。
■本当に描いてほしかった展開
個人的には、ただ子どもの名前にするだけではなく、「おばあちゃんになったエミリーとジェシーが直接再会し、お互いに当時を思い巡らすシーン」までガッツリ描いてほしかった。
もちろん、「おもちゃは人間の前では動けない・話せない」という絶対ルールがある。過去のトラウマに引っ張られるとか、メインテーマがブレるとか、制作側の理屈もよくわかる。
しかし、ナンバリングの『5』として世に出すのであれば、そこまで振り切ってほしかった。むしろ「対話ができない(動けない)」というおもちゃの絶対ルールがあるからこそ、その沈黙の再会シーンは際立って美しく、エモーショナルな名シーンになったはずだ。
「過去キャラとの直接の再会なんて安直だ」と思われるかもしれない。しかし、『3』でおもちゃの物語がすでに完結している以上、蛇足と分かっていてもファンが続編に本当に求めているのは、小難しい社会テーマなどではなく、こうしたストレートに心を揺さぶる「王道」の展開なのだ。
デジタルにはない「アナログなおもちゃだからこそ残せる一生の記憶」をあそこまで描き切ってくれていれば、本作はシリーズの根幹を揺るがす大傑作になっていたと思う。
Jessieの悟り〜幼児玩具の本懐
公開9日目と然程意気込まずの鑑賞でしたが、数回泣かされたので9/10点評価。新たな玩具の台頭や幼児の成長で、主人公が捨てられそうになるという主題が繰り返されてはいますが、ヒロイン Jessie (カウガールの人形)の悲哀に感情を拐われました。
🎠
1. Jessieの悟り
Toy Story 2の劇中歌「When She Loved Me」で歌われた、最初の持ち主 Emily に対する思慕とトラウマ。あんなに必要とされて、あんなに愉しく遊んだ一時があったのに、成長したEmilyに見向きもされず、不用品として寄付された過去。
今の持ち主のBonnie (8歳)自身は、幼児玩具で結婚式ごっこに耽る少女。しかし、人形を遊び場に持ってくる事自体を、タブレットを駆使しネットで遊ぶ同世代には嘲笑される。引っ込み思案だが友達に飢えていたBonnieは、友達候補を失わない為、Jessie を手放そうとさえする。Jessieはその仕打ちに再度絶望しかけるが、嘗ての遊び場で成長したEmilyが残したメッセージに遭遇し、幼児玩具としての本懐を悟る。幼児玩具が本領を発揮できるのは、玩具に興味がある幼児が目の前に居る刹那。それがどんなに短くても、思い切り幼児を楽しませればいい。遊びも幼児を成長させる。幼児は育てば玩具が要らなくなる。でも、それこそが幼児玩具の役割ではないか? その時がどんなに短くても、刹那の輝きが強ければEmilyの様に想い出の片隅に残れる場合もある。それこそが本懐とJessieは悟る。
覚悟を決めたJessieは、Bonnie 同様人形遊びが好きで、彼女を馬鹿にしない友達を作ろうとする。馬の人形を飾るBlaze (9歳)は正にうってつけ。Bonnieの関心と時間を奪い敵対していた電子玩具の助けを借りて、彼女たちは友達になる。エンドロールには、家族ぐるみの付き合いになった二家族が、Emilyとの想い出の場に向かう大団円。でも、Jessieは悟っている。いずれ、BonnieとBlazeとも分かれる事を。次は、捨てられるか、お宝玩具して日本の博物館に並ぶのか(Toy Story 2)。でも、Jessieはもう絶望しない。自分の責務を全うしたのだから。2人の少女を、己を必要としないほど成長させたのだから。
🏇
P.S. AI開発に携わる技術者が、自分達の仕事がなくなる程、自己補修、自己成長可能なAIを開発できた時、Jessieほど達観できるだろうか。
🐎
2. Devicesって、Pixar自身
本作では、ネットに繋がるタブレットが子供の時間を溶かしていく仇役とて登場したが、これってPixar自身の事? にも感じました。「Toy Story」のヒットで、レトロ玩具が再注目され、関連グッズとしてWoody等のキャラクター人形も沢山販売されたので、本シリーズが手にとって遊ぶ玩具を復興し、大人にも関心を広げたのは事実でしょう。
一方で、セル画を手書きするアニメ製作から、コンピュータを駆使しして、フルCGでのアニメ製作を可能にしてきたのがPixar。当然、電子玩具との愛称も良く、DisneyPixarのキャラがふんだんに登場するタブレット端末も売り出されています。また、DisneyブランドのTVアニメシリーズにも、Pixarの技術が活かされています。つまり、本作で仇役とされる振る舞いをPixar自身もガッツリ関与しています。なので、マッチポンプ感がプンプン匂います。
なので、住人がPC画面やタブレットに集中していて、Jessie達が家の中を通り抜けるのに気付かなり場面も、あまり笑えませんでした。子供が観てるのPixarアニメちゃう?
🐴
3. 片想いから解き放たれたWoody
世間的には毛嫌いする人も居る「Toy Story 4」。でも個人的には、「4」の結末は子供へ片想いが前提のfantasyからの、興味深い脱出方だと感じました。幼児玩具が、持ち主からの愛でしか自身を満たせないのなら、Jessiseが感じた絶望は必然に生じ得る。でも自分の生きる目的を他人に委ねず、自分で決めたらどうだろう。それは自己満足に過ぎなくても、他人から評価を気にせず自己実現可能な生き方ではないか。
「5」に於いて、Woodyは行方不明になったJessieの為に奔走するが、もはやBonnie等子供の事は気にかけていない。子供からの愛情に依存しなくなったWoodyに、子供心が裏切られた気持ちになる観客も居るのだろう。でもそんなWoodyこそ、自分には頼もしく映った。
エンドロールの途中で席を立つと見逃しあり
17:45 - 19:40
スクリーン5
G-16
ハッピー55(G.G) / ¥1100
あらすじを見ると古いタイプのおもちゃたちとデジタルデバイスの争いみたいに思えるが、どちらも持ち主のことを考えており、やがてタブレットが自分の過ちに気づきおもちゃたちと一致団結して持ち主に最適な友達をマッチングさせるという話。
ごっこ遊びやったよなぁ。おもちゃをいろいろな役にして〇〇ごっこ、そうやって大人になっていくんだよね。
子どもたちがタブレットに夢中になっている様を見て驚愕した。一緒にいてもタブレットを見てる(ゲームしてる?)だけで会話してなくてこれは問題提起なのかな。
エンディングのあともちょっとした物語(?)があって途中で席を立つと見逃す。
自分はエンディングも作品の一部として見てるので最後明かりが点灯するまで席は立たない。最近は最後まで見させる工夫がされてる作品が多々あり面白い。
ほっこりした時間でした。
あまりウッディは活躍しない。
今回はジェシーが主役の映画で、
デジタルデバイスとおもちゃのあり方を描いた作品です。
前半は3つの話(ボニー、ジェシー、バズ達)が平行して進んでいるようで、
そしてそこにウッディ達の世界が差し込まれて、少し場面転換が多くて、
この場面いるかなと思うところがありました。
後半はジェシーと、ボニーの話に焦点があたり、
良かったのですが、ジェシーとエミリーのその後は、
少し感動するのですが、若干付け足されたような展開で、
心が響くには、情景や設定に、もう少し説得力を感じるエピソードが欲しかったです。
トイストーリー4よりも、良かったのですが、
おもちゃと人間との関係に、しっかり焦点が当たっていた1〜3に比べて、
個人的には、物足りなさを感じました。
1〜3を超えられない
3作目で終わってればよかった…と思うくらいに4が無理筋だったので、せめて溜飲が下がればいいなぐらいの期待値で鑑賞。
練られたストーリーで泣かせどころも随所にあり、良く出来た映画という印象ですが、見終わってこうやって感想を書こうとするとテーマがはっきりしなくてモヤモヤしています。
まず、子供たちのデジタル依存への問題提起は良いとして、そこにボニーの友達作り問題が絡んでくるのがちょっと鬱陶しい。
いわゆる女子コミュニティの洗礼とそこになじめない女子の葛藤はインサイドヘッド2でも描かれていたので、またそれか、という感じ。
ボニーは4の時から苦手なキャラでしたが、精神的な成長があまり感じられず、ひたすらボニーに寄り添う両親も甘やかしているように見えてしまう。
4で放浪おもちゃの軍団に加わったウッディをどうやってボニーのおもちゃ達と絡ませるのか懸念していましたが、ジェシーだけは単独でウッディと連絡を取り合っていたようです…って、都合が良すぎないか?
製作陣の苦肉の策でしょうが。
敵役のリリーパッドはSNS機能もあるゲーム端末ですが、10才のボニーのコミュニティで流行っている設定なのはやや疑問。2026年のアメリカの小学生なら、iPhoneじゃないの?と。
あと、なんだかんだで問題解決方法が、デジタルおもちゃ達のギミックに頼り切っていたのはテーマに反してないか?
自分はシンプルな1〜3、がやっぱり好きだな、と再確認しました。
どうでも良いですが、ハイテク版バズの集団のシークエンスがやたらとスターウォーズ感を全面に押し出していた(音楽までそれ風)のがやや違和感でした。
元々パロディなのは承知していますが、あんなに大っぴらにやってなかったですよね。
現在のディズニーはSWコンテンツを掌握してますし、色々アピールしたいんだろうなーと、大人の事情を感じ取ってしまいました。
問・素通り?
作品単体として見れば十分に楽しめる、表題の点数へ値する出来栄えであるように感じる。
ただし、シリーズ全体の流れや文脈に着目するとその印象は少し変わる。
とりわけ4という賛否両論の続編を経た後に産み出された作品として見ると、要所要所に過去作との折り合い付けや修正を試みる、どこか作為の篭った作劇が透けて見えた。30年間続くトイ・ストーリーシリーズは、もはや単体だけでなく過去作とのコントラストを含めて評価されるシリーズになっている。特に3、4、5はその内容だけでなく、各作品同士の接続方法に大きく意見が分かれるポイントが数々存在している。
まず振り返ると、トイ・ストーリーシリーズは3をもって、アンディとウッディの物語に終止符を打ったと言える。
二人は互いに別れを受け入れる覚悟を固め、正式な手続きを以て別離した。屋根裏に眠らせることや新生活へ連れ出すことは、いずれも別れを先送りにするだけの選択肢に過ぎない。3は廃棄されたおもちゃの末路を描くことで、おもちゃにも寿命があることを示唆した。それを見せた上で、誰も傷つかない代わりに何も残らない結末ではなく、アンディとウッディ双方が痛みを伴いながらも前へ進む姿を描いたことこそ本作最大の美点だった。
その後制作された4は、内容と制作意義の両面でシリーズ屈指の賛否両論を呼んだ。否定的な意見の多くは3で完成していた物語に蛇足を付け加え、過去作の価値を損ねてしまったという点に凡そ集約される。私自身もシリーズ全体を通して見れば4には少なからぬ問題があると考えている。
しかし一方で本作なりの制作意義を見出すこともできる。トイ・ストーリーシリーズでは、人間とおもちゃは直接的対話こそないものの、互いの行動を通じた「時間差のコミュニケーション」を積み重ねてきた。その関係性の中でウッディ達は「なぜ子供に尽くすのか」を自ら見出し、アンディは最後までその信頼を裏切らない理想的な持ち主であり続けた。観客もまたその姿から「ものに対して良い所有者でありたい」という教訓を持ち帰ることができたはずだ。
とはいえ現実には誰もがそうした所有者でいられたわけではない。もしも自身の人生を振り返り、そこに後ろめたさを抱えていた観客がいたのなら4は一つの救済になり得たのかもしれない。過去作との整合性を犠牲にする代わりに、「持ち主の下を離れたおもちゃにも新たな人生がある」という可能性を提示したことが4に辛うじて見出せる制作意義である。
もっとも、そのためにシリーズが積み重ねてきた設定や価値観を逸脱したこと、イマジナリーフレンドとも言えるウッディが一方的な別れを告げたこと、そして完結した作品に続編としてこれを付け加える必要があったのか、という疑問はなお残る。
そうした経緯から、今作には作品単体の完成度だけでなく、4によって揺らいだシリーズ全体との整合性を回復する役割まで期待されることとなった。
5の主人公はウッディからジェシーへと交代した。ジェシーもまた持ち主との別れを経験しているが、それはアンディとウッディのように双方が納得した正式な別れではない。そのため彼女は別離そのものに強い恐怖を抱いており、ボニーにとって良いおもちゃであり続けようとする意識が誰よりも強い。
一方、八歳になったボニーは依然としておもちゃで遊んでいるものの、周囲の子どもたちは次第におもちゃから卒業し始める。その影響もあってか、彼女は以前にも増して内向的で友人関係を築くことが苦手なままであった。
ジェシーたちは何とか友達を作らせようと奔走するが常に決め手を欠く。そこでボニーに与えられるのが、ゲームとSNS機能を備えたタブレット端末・リリーパッドである。劇中では、世界中の子どもたちがリリーパッドに夢中になっている。リリーの考える友達とは、現代のSNSのフォロー関係のように簡単に繋がれる一方で維持や発展が難しい関係性だ。それに対してジェシーは真っ向から反発する。
本作はここでアナログとデジタル、あるいはローカル社会とネットワーク社会という対立構造を最初に提示している。もっともこのテーマにはやや周回遅れな印象が勝る。現実の子供の遊びはすでにデジタルを越え、AIとの関わりへと広がり始めているからだ(もっとも、メタ的に見ればリリー自体がAI的存在とも一応は解釈できる)。
加えて2、3ではテレビゲームを登場させながらもあえて魂を付与せず、おもちゃの定義から切り離していた。それにもかかわらず、今作で改めてデジタル玩具を正面から扱ったことにも少なからず遅れを覚えた。
そして、それ自体も決して新しいものではなく、リリーも広義ではおもちゃであり、語られる対立は「アナログ対デジタル」というより、「既存のおもちゃが新しいおもちゃに居場所を奪われる」という図式である。これは、カウボーイのウッディがスペースレンジャーのバズに脅かされた第1作と本質的には同じ構造だ。この点はシリーズとしての文脈とも取れる一方、同時に既視感でもある。
また、本作には過去作との接続点が数多く盛り込まれている。冒頭のバズ軍団からしてグリーンアーミーを思わせる演出と役割であり、お馴染みのスター・ウォーズを意識した小ネタなども健在だ。こうした引用はウッディが再登場してからさらに増え、過去作の名場面を思わせるシーンやセリフも続々と挿入される。
ただし、私が最も気になった点もこのウッディの再登場である。今作のウッディは物語を動かす役割を殆ど担っておらず本筋への影響も限定的だ。コメディやファンサービスには大きく貢献しているものの、ストーリーだけを考えればむしろ登場しない方が完成度は高かったように思える。それでも彼を再び舞台に上げたのは、旧作ファンの期待に応えるためだったのだろう。しかし私にはそれがファンサービスというよりも4で多くの批判を招いたことへの謝罪のようにも映った。さらに、無線一本でウッディを呼び戻せてしまう展開は4で子供部屋を去るという彼の決断を曖昧にしてしまっている。この意味では4が3をスポイルしたように、5は4の独自性を薄めてしまったとも受け取れる。
ここで、先ほど触れたコミュニケーションの構造へ話を戻す。
3までのおもちゃと人間は時間差のある双方向のコミュニケーションを積み重ねることで絆を築いていた。
4ではその関係をウッディ自ら断ち切るという、それまで徹底して否定してきた選択が初めて描かれた。
そして5では更に一歩踏み込み、リリーを介してリアルタイムかつ双方向のコミュニケーションが成立するようになる。作中では人間になりすまし、持ち主本人ではなく周囲の人物とのやり取りに限定することで辛うじて世界観を維持しているが、それでもシリーズのルールとしてはかなり踏み込んだ変更と言える。3のラストシーンでアンディとウッディが互いに手を振り別れることとは異なる文脈の同時双方向性コミュニケーションである。
旧三部作は完成度が高い反面、細かな設定やツッコミ所にはあえて踏み込まず、語らないことで成立させてきた作品でもある。だからこそ、今作のようにおもちゃが人間へより積極的に干渉する描写は、それまで意図的に避けてきた問題を掘り起こしてしまう危険性を孕んでいる。これは、アナログ対デジタルというテーマが「どこからどこまでがおもちゃか」という定義を改めて問い直してしまったことと同じである。
本作のテーマから導き出した解として、 和解したデジタルおもちゃとアナログおもちゃが協力し合ったこの手法は、このテーマから導かれる回答として自然である。故にそこにはもう一歩だけ違和感を抑える工夫が欲しかった。
おもちゃたちは和解後、思想の違いを乗り越え「ボニーに友人を作る」という共通の目的へ向かって協力する。その結果、ボニーはブレイズという良き友人と出会う。二人が出会うまでの過程にはリリーパッドのネットワーク、ひいてはデジタル技術の存在が不可欠だった。ボニーはそれによって傷つきもしたが、同時に救われもしたのである。デジタルは善でも悪でもなく向き合い方次第であるという本作の着地点には一定の説得力がある。
しかし、その一方でブレイズという存在には引っ掛かりも残る。彼女はボニーと同じくおもちゃで想像力豊かに遊ぶことを好み、また同様にネットワーク上での人間関係に失望した経験を持つ少女でもある。迷い込んだジェシーらの一時的な持ち主となった際にその共通点が明らかになり、ジェシーは彼女こそボニーに相応しい友人だと判断して二人を引き合わせる。
だが、この結末にボニー自身の成長はどれほど描かれていただろうか。
先にも述べたように3の美点は、別れという避けられない問題から目を背けず、痛みを伴いながらも互いが前へ進んだことにあった。それに対して今作は、今の自分にぴったりの理解者が偶然現れたことで問題が解決してしまった。そこでのブレイズはあまりにも都合よくボニーを理解する存在として配置されており、作劇上の作為を強く感じてしまう。
二人にもやがておもちゃ遊びを卒業する時期が必ず訪れる。劇中でもその岐路に立ちつつあることは示唆されている。無論、おもちゃ遊びを卒業することを成長と定義してそれのみを是とするつもりはない。ところが、成長や変化を扱ってきたシリーズであるにもかかわらず、最終的な回答が「今のままでよい」というものに留まってしまったことには疑問が残る。3があえて選ばなかった延命措置の選択を、本作は結果として選択してしまったように思えてならない。
結論として、これらの違和感を解消するにはより思い切った決断が必要だったように思う。本作はトイ・ストーリー=ウッディという図式から脱却しようとする意思を確かに感じさせる。その姿勢はシリーズの象徴とも言える主題歌「君はともだち」を敢えて使用しなかった判断にも表れている。
しかし、4で賛否を呼んだ経緯から旧来のファンへの配慮として、あるいは興行的な事情によりウッディを再登場させざるを得なかったのだろう。その結果、彼の出番は物語の本筋ではなくファンサービスへと偏り、限られた上映時間を圧迫してしまった。その影響はジェシーとバズの関係性をはじめ、いくつかの描写や進行に唐突さを感じる要因にもなっている。
また、ボニーの成長を描くのであればブレイズという理解者との出会いだけでは不十分だったように思う。例えば、一度は距離が生まれたダンススクールの面々との関係にも、ボニーによる能動的な歩み寄りとそれによる何かしらの変化が僅かでも描かれていれば、彼女が一歩前へ進んだという実感はより強いものになっていたはずだ。
なおかつ第1作と同じ構図を採用するのであれば、当事者であるウッディをあえて登場させないことで、それが既視感ではなく意図的なセルフオマージュとして受け止められ、新しい物語としての独立性もより強まったように思う。
総じて言えば、ウッディを完全に退場させ、ジェシーを中心とした新しい物語として徹底していれば、本作が抱える違和感の多くは解消できたのではないだろうか。
さらに踏み込むなら、主要キャラクターを一新し、新しい世代へ向けた「新生トイ・ストーリー」として再出発していたならば、本作はその第一歩としてより高い完成度を備えた作品になったようにも思える。
或いは、この映画こそがトイ・ストーリー4として公開されていたなら、シリーズ全体の印象もまた大きく変わっていたのかもしれない。
かくしてトイ・ストーリー5は功罪ある作品となった。率直な感想を述べるなら「ただ純粋に楽しみたかった」という一言に尽きる。自分の中で4という作品が、愛着とはまた別の意味であまりにも大きな存在になってしまっており、そのことがどうしても今作をフラットな気持ちで観ることを妨げてしまった。
恐らくトイ・ストーリーは、今後も役者を少しずつスライドしながら新たな物語が紡がれていくのだろう。
その歩みがトイ・ストーリー3が示した「前に進む勇気」を、シリーズ自身が失ってしまうことに繋がらないことを願っている。
同時双方向性コミュニケーションはアンディよりもシドが先だって…?
…はい。
少し退屈な印象。
シリーズのファンです。
以下、ネタバレを含みます。
↓
↓
↓
本作はジェシーが主人公。
悪くないですが、正直、物足りなさがあります。やっぱ、ウッディやバズをはじめとしたおもちゃ達の活躍や、やり取りがもっと観たかった。
ストーリーも、最後まで予想通りに進みます。(期待通りとも言えますが…)
3が傑作過ぎるが故に、物足りなさを感じてしまうのは、少し可哀想にも思う。。。
なぜ『トイ・ストーリー5』に物足りなさを感じたのか
■『トイ・ストーリー5』感想(ネタバレあり)
『トイ・ストーリー』シリーズはずっと好きで、だからこそ今作にもかなり期待していた。
映像は相変わらず素晴らしかったし、「Play(遊ぶ)」というテーマにも共感できる部分は多かった。でも全体を通して感じたのは、「5作目だからこそ、もう一歩新しいことをやってほしかった」という物足りなさだった。
■ストーリーはかなり予想しやすかった
一番最初に感じたのは、ストーリーがほぼ予想通り進んだこと。
主人公の女の子がおもちゃが好きで、周りとは少し違う存在として描かれる。そして序盤で似たような境遇の女の子が登場した時点で、「この二人は最後に友達になるんだろうな」と予想できてしまった。
その後も大きなひねりはなく、「やっぱりそうだよね」という展開が最後まで続いた印象だった。
もちろん王道のストーリーが悪いわけではない。でも『トイ・ストーリー』は毎回どこかで予想を超える感情の動きや、新しい視点を見せてくれるシリーズだと思っていたので、今回は少し物足りなかった。
■前作とのつながりは少し分かりづらかった
『トイ・ストーリー4』から時間が空いていることもあり、最初は少し状況を整理するのに時間がかかった。
特に、おもちゃたちの持ち主が変わっているので、「この子は前からいた子だっけ?それとも新しい子?」と少し混乱した。
また、バズとジェシーの恋愛関係のような描写も、自分の記憶にはあまり残っていなかったので少し驚いた。
個人的には、『トイ・ストーリー』は仲間との友情や信頼関係が一番のテーマだと思っている。だから恋愛要素を入れる必要があったのかな、という気持ちも少しあった。
■ジェシーを主人公にするなら、もっと踏み込んでほしかった
今回はジェシーが物語の中心だった。
正直に言うと、自分はもともとジェシーにウッディやバズほど強い思い入れがあるわけではない。だからこそ、主人公として新しい魅力や成長が描かれることを期待していた。
でも最後まで、おてんばで自由奔放というこれまでの印象から大きく変わる部分はなく、精神的な成長もあまり感じられなかった。
ウッディやバズは、「仲間を思う」という軸がとても強く、その信念と二人の協力タッグで物語を引っ張ってきた。一方で、今回はジェシーだけで物語を引っ張るには少し弱く感じてしまった。
主人公を交代するのであれば、「ジェシーだからこそ描ける物語」をもっと見せてほしかった。
■シリーズらしいテーマはある。でも、それだけだった
『トイ・ストーリー』の魅力は、仲間を思いやること、誰かを助けること、そしてみんなで困難を乗り越えることだと思っている。
今回もその要素はしっかり描かれていた。でも、それ以上のものがあまりなかった。
「またこのパターンだな」と感じる場面が多く、サプライズも少ない。
もちろん安心して観られる作品ではあるけれど、心を大きく揺さぶられるような感動は今回はあまりなかった。
■デバイスを悪者にしすぎているように感じた
今回のテーマは、おもちゃとデバイスの対立だった。
ただ、その描き方には少し違和感があった。
デバイスに夢中な子どもたちが、挨拶を返さなかったり、グループチャットでいじめのようなことをしたり、マナーの悪い子どもとして描かれていた。
でも、デバイスを使っている子どもがみんなそうではない。
「デバイスを使う子=態度が悪い子」という描き方は少し単純化しすぎているように感じた。
また、終盤ではその子どもたちがおもちゃ遊びに加わるようになるが、それまでの描写を考えると、「そんなに簡単に変わるのかな」という疑問も残った。
変化の過程にもう少し説得力がほしかった。
■「古いおもちゃ vs 新しいもの」は、もう一歩進化してほしかった
古いおもちゃと新しいテクノロジーの対立というテーマ自体は、実は第1作からずっと描かれてきたものだ。
第1作ではウッディが古いおもちゃで、バズが新しい人気のおもちゃとして登場した。
「子どもは新しいものに夢中になる」というテーマは、シリーズの原点でもある。
だから5作目でも同じテーマを扱うのであれば、もう少し新しい視点がほしかった。
例えば今回はデバイスやAIが身近な時代だからこそ、「何がおもちゃにしかできない価値なのか」をもっと深く掘り下げられたはずだと思う。
■「Play」というテーマはすごく良かった
一方で、一番好きだったのは「Play(おもちゃ遊び)」というテーマだった。
おもちゃ遊びでは、子ども自身が物語を考え、自分で世界を作っていく。
一方でデバイスは、もちろん創造的な使い方もあるけれど、多くの場合は用意されたコンテンツを楽しむことが中心になる。
だから、自分で物語を生み出すという創造性は、おもちゃ遊びならではの価値だというメッセージにはすごく共感した。
だからこそ惜しかった。
そこからさらに、「デバイスが悪い」ではなく、「今の時代だからこそ、おもちゃだからできること」をもっと深く描いてほしかった。
創造性なのか、人とのコミュニケーションなのか、あるいはAIには代替できない遊びの価値なのか。
そのあたりまで踏み込めていたら、シリーズ5作目として新しいメッセージになったと思う。
■映像は本当に素晴らしかった
映像については文句なしだった。
もともとピクサー作品は映像表現が素晴らしいけれど、今回はさらにリアルさが増していて、シリーズの進化をしっかり感じられた。
■ウッディはもっと見たかった
前作でウッディは、「持ち主のために生きる」という信念から一歩踏み出し、自分自身の生き方を選んだ。
あの決断には賛否あったと思うが、自分はシリーズとしてすごく面白い挑戦だったと思っている。
だからこそ今回は、その後のウッディがどう変わったのかをもっと見たかった。
しかし実際には、お助け役として登場する場面が中心で、内面的な変化はあまり描かれなかった。
見た目が少し老けたような描写はあったものの、それだけで終わってしまった印象だった。
しかも他のおもちゃたちはほとんど変わっていないのに、ウッディだけ老けて見えるのは違和感もあった。
見た目だけではなく、価値観や生き方の変化まで描いてくれたら、前作からのつながりももっと感じられたと思う。
■総評
決してつまらない作品ではなかった。
映像は素晴らしいし、「Play」というテーマも今の時代だからこそ意味のあるメッセージだったと思う。
だからこそ、そのテーマをもっと深く掘り下げ、新しい挑戦をしてほしかった。
『トイ・ストーリー』はこれまで何度も、予想外の展開や感情の揺れ動きを通して「おもちゃたちの冒険の世界」や「変わらない子どもの純粋さ」などを描いてきたシリーズだ。
5作目にはその積み重ねの先にある、ある新しい提示を期待していた。
その期待が大きかった分、「もう一歩踏み込んでほしかった」という気持ちが最後まで残った作品だった。
1作品としてはとても面白い
が、TOYSTORYファンとしては、
スピンオフ作品として認めたい。
やはり、3までで終わるのがベストだったと思う。
大切にしなければいけないこととかは既に3までで十分表現してるので重複感あり。
アンディも出番少ないし、バズもいまいちバカな感じだし過ぎだし。
シリーズとしてはダメだが、ジェシーのスピンオフ作品としては面白かった。
復活のトイストーリー5
今までとは違いジェシーが主役の世界観。ハラハラ感はそこまでだったけど、前作の4を超えるストーリーだった。デジタルとおもちゃ。考えさせられる内容だった。素晴らしかった。
“人間的な物語”から、再び“オモチャとしての物語”に軌道修正
《IMAXレーザー》にて鑑賞。
【イントロダクション】
“オモチャの時代はもう終わり!?”
賛否両論を巻き起こした前作から7年。今度は最新テクノロジーを前に、ジェシー達オモチャが存続の危機に直面する。
監督・脚本に、シリーズ全作に原案や脚本として参加し、前作でも脚本に参加したアンドリュー・スタントン。その他脚本に、短編『アルベルトの手紙』(2021)のケナ・ハリス。
【ストーリー】
とある砂浜で、最新型のバズ・ライトイヤーが目を覚ました。辺りを見回すと貨物船のコンテナが落下して漂着した様子で、無数の同胞達が打ち上げられている。バズが他の仲間達を起動させ、島の探索を開始すると、そこは無人島だった。焚き火を囲み、空を見上げたバズ達は空に輝く星をスペース・コマンドだと勘違いし、そこを目指して筏を作って島を脱出したー。
一方、前作のラストでウッディと別れ、保安官バッジを受け継いだジェシーは、8歳になったボニーのオモチャとして、変わらず平穏な日々を過ごしていた。しかし、内気なボニーは近所の子供である兄妹を遊びに誘えず、独りでオモチャ遊びをする日々を過ごしていた。それを見兼ねたジェシーは、愛馬・ブルズアイと共に隣家の子供達を誘いに行こうとする。
しかし、そこで彼女達が目の当たりにしたのは、オモチャではなくデバイスを手にブルーライトの光る画面を見つめて操作する子供達の姿だった。庭に置き忘れられた隣家の子供達のオモチャは、デバイスが子供達の興味関心を自分達オモチャから完全に奪い、オモチャの時代は終わったと告げる。隣家の屋根に登って辺りの家々を見回したジェシーは、どこの家庭も子供達が夢中でデバイスに向かっている姿を見て愕然とする。
一方、ボニーは友達作りの為、両親にカエル型の最新タブレット・リリーパッドを買ってもらう。リリーパッドはすぐさまボニーのお気に入りとなり、オモチャ達は乱雑に床に取り残され遊ばれなくなってしまう。危機感を抱いたジェシーは、ボー達と共に迷子のオモチャとして同胞を助けるウッディに連絡を取り相談する。ウッディもまた、最近迷子のオモチャが増えた事を理解していた。すると、バズ達が乱入した事で慌ただしくなった際、ジェシーの言葉を勘違いしたウッディは、再びジェシー達の元へ向かう決意をする。
【感想】
“デバイス”という今日の我々には最早欠かせなくなったアイテムを題材に、「タブレット操作に生活の時間を費やし(奪われ)ていては、子供達の想像力や創造性は育まれないのではないか?」「ブルーライトの画面ばかり眺め、チャット機能で紡がれる他者との関係は、真の交友関係なのか?」という問い掛けを提示する本作は、まさに現代で描くべきトイ・ストーリーの姿だと言える。
しかし、本作は単なるデジタル批判に陥る事なく、「大事なのは、テクノロジーとどう向き合い、どう付き合うか」という至極真っ当なメッセージを、最新型タブレットのリリーパッドや子供のトイレトレーニングマシンのスマーティー・パンツを始めとしたデバイス達を決して真の悪役にする事なく描いてみせる。そのバランス感覚の良さは、「これぞ、ディズニー&ピクサー‼︎」といったところ。デバイスとはあくまで「人間の生活をより良くする為の物」であり、「生活や他者とのコミュニケーションを破綻させる」のであれば、それは使用する人間側がデバイスを使いこなせていない、テクノロジーに飼い慣らされているに過ぎないのだ。
そして、そんな人間達を前に存在意義が失われつつあるオモチャ達を代表して奔走するジェシーは、本作にて過去のトラウマと向き合い、真実を知って克服する事になる。かつて成長と共に自分と遊ぶ機会が減って行き、最後には寄付して別れる事となってしまったエミリーとの関係性の“その後”が描かれる事により、ネガティブなものとなってしまっていたエミリーとの思い出がポジティブなものに変化する。エミリーは自分の娘にジェシーの名を付けており、彼女にとってジェシーは「いつまでも心の中で寄り添い続けてくれた存在」だった事が判明し、それがジェシーにとって「例えオモチャが遊ばれなくなっても、側に寄り添い続ける事は出来る」と決意をさせる。
とはいえ、それほどまでにジェシーの事をかけがえのない存在として思い続けていたのなら、彼女を手放してしまった点は不可解にも思う。何故なら、既に「3」にてエミリーと同じ立場として描かれたアンディが、ウッディだけは大学寮に連れて行こうとする選択をしているからである。過去作から掘り下げられる要素を探し出し、そこに更なるドラマを付与して展開する様は面白味があるが、アンディが最適解を先に示してしまっている以上、何処か「後付け」感は拭えない。
また、冒頭からいきなりサブストーリーである無人島に漂着した最新型バズ軍団のストーリーが展開される点には少々首を傾げてしまった。勿論、クライマックスでジェシー達のメインストーリーと合流し、共に活躍を見せるのだが、そこありきで逆算して物語が組み上げられた感が強かった。創作において、その方法論は決して間違いではないのだが、観客にその様子を感じさせない巧みさが大事だと思うので。例えそれが、ハイテク故に本作の敵側であるデバイス寄りのバズ達が、テクノロジーのポジティブな面を体現する役割があるとはいえ。
ただし、エピローグで子供達のオモチャになって宿敵であり父親であるザーグと再会するオチは笑えたが。
更に、本作ではジェシーが物語を引っ張っていく構図になっており、ウッディの活躍は添え物程度。ウッディは前作でセカンドライフの生き方を選択し終え、エピローグで新たな仲間達と新たな人生を過ごす様子も描かれていたので、ウッディの物語は前作で完結しているのだ。なので、正直これならばいっそ思い切ってウッディの出番は無い、もしくはジェシー達が自分達の力で事態を解決した様子をエピローグで遠くから見届けて仲間達と去って行くような演出で良かったように思う。また、もし再びウッディを物語の主人公に復帰させるならば、最早彼にとって語られるべき物語は一つしかないと思う。
色々と引っかかる部分はありつつも、過去作から様々な要素を掬い上げ、再構築して語ってみせる本作の心意気は好感が持てる。特に、本作の存在によって影の薄い印象にあった「2」の輝きが増す結果になったのは嬉しい。
また、前作ではオモチャ達が「オモチャとしての側面」よりも「人間的な人生選択」や「人間達の生活にオモチャとしての領分を超えて介入する」という活躍を見せた事で賛否両論を巻き起こしたが、本作では再び「オモチャとしての存在意義」に重きを置いた事で、上手く巻き返しに成功した印象。
【新3部作の完結編である「6」に私が期待する事】
既に世界興収も8億ドルを突破しており(7月10日時点)、シリーズ最高の世界興収を記録する事はほぼ確実となっている。ならば、当然予定されているという「6」も問題なく実現するだろう。そして、もしその「6」にて、再びウッディを物語の主人公に復帰させるならば、描くべきテーマは一つしかないと私は考える。そう、「死」についてである。勿論、それは「オモチャである事」を多分に超えてしまいかねない気もする。しかし、「形あるものはいずれ壊れ行く」のは、オモチャにとってもまた宿命であろう。
新3部作のスタートである前作「4」にて、ウッディはオモチャとしてだけでなく、限りなく人間の男性、それも子育てを終えセカンドライフの生き方を選択すべき中年として描かれた。本作でも、後頭部の塗装がハゲて光を反射したり、腹のワタが下に下がる様子を「メタボ」と表現して、彼の「老い」が進行している様子をコミカルに描いていた。リリーパッドが「お爺ちゃん」と揶揄したように、ウッディは最早、中年どころか老人の領域に足を突っ込んでいるのである。
ならば当然、ウッディは確実に「死」という人生最後のステージに向かっているはずである。旧3部作は「ウッディとアンディの成長物語」を描いて完結させた。そして、その続きを現行の新3部作で描いているのならば、その結末は「ウッディというオモチャの物語の完結」に自然と収束していく気がするのだ。
ウッディは前作で、ボイスボックスをギャビー・ギャビーに譲り、保安官バッジをジェシーに譲った。つまり、彼は自分の魂の一部を「次の世代に継承した」のである。
そして、本作でジェシーは自らのトラウマを克服しつつ、立派にボニーの「側にいる」存在となった。それはまさに、かつてウッディがアンディの成長を陰ながら見守り、支えてきた姿と同じである。
ウッディは歳を重ね、後輩に自分の意志を継承した。ならば、彼が最後に迎えるべきは、「オモチャとしての機能を完全に失い、眠りにつく」つまり「役目を終える」事だ。どのような存在にも、必ず「終わり」は来るのだ。
別に、悲しみに満ち溢れた結末を望んでいるわけではない。ジェシーやバズに分かりやすく別れを告げる必要もないだろう。彼はただ、自分にとっての新しい世界を求め、かつての恋人であるボーと共に未知なる外の世界に飛び出したのだから、ただその果てに何か美しいものを見て、ゆっくり眠りにつけば良いのである。ジェシーがエミリーとの思い出を夕陽の差すあの美しい丘に刻んでいるように、ウッディもまた、自らの終着点を何処か美しい場所で、出来ればボーと共に並んで迎えて欲しいと思うのだ。そして、その為に必要な要素は既に揃っているのだ。
とはいえ、果たしてディズニー&ピクサーがそうした結末を長らく愛されているキャラクターに与えるかは疑問だ。しかし、アンディとの物語に完璧な着地を与えて尚、ウッディに人間の人生ステージを重ねてその先を描くという選択をしたのならば、しっかりとその果てまでもを描き切ってほしいと願う。
【総評】
賛否両論の前作から一転、本作でシリーズの評価は無事巻き返した様子。かく言う私も、引っかかる部分はありつつも、全体的には楽しめた。しかし、この新シリーズの正念場は次回作だと思うので、オモチャ達の物語としても、また個人的に期待しているウッディの結末についても、見事な着地を見せてほしいと期待している。
泣ける
面白かった。十分大人も楽しめる。トイストーリーは毎回完成度高い。
動物とか子供とかロボットとかおもちゃとか、無垢で純粋な存在ががんばる映画はなんか泣ける。
今回はジェシーが主人公の話で、はじめの持ち主に忘れ去られてたと思ってたら、子供にジェシーの名前をつけてたのは泣いた。
あと、やっぱ子供にタブレットはあかんなー、と思った。
イマイチ刺さらなかった
デバイスの登場により、おもちゃで遊ばれなくなる話。
最後は共存でハッピーエンド。ありきたりで新鮮味がなかった。
ボニーにとっては気の合う友達が見つかり良かったが、チャットで嫌味を言ってきた子たちとの関係は解決していないし、ラストで隣の子たちが遊びに入ってきた展開は調子が良すぎると言わざるを得ない。
ウッディも序盤から意味深な描かれ方をしていたバズ隊も全体としては存在感が薄かった。
ストーリーに深みがなく、展開もやや単調だった。
デジタルコンテンツとおもちゃについて、もう少し踏み込んだメッセージを提示して欲しかった。
相変わらずウェルメイドなピクサー
「トイ・ストーリー5」吹替版でシネコンが占拠されるなか、数少ない字幕版を見つけ遠いシネコンへ。客席数の少ない狭いスクリーンだ。外人さんの家族がいっぱい。そうか、そういう需要は当然ある。字幕版をもっと増やさないといけませんよ。
吹替版が新幹線のぞみかってくらい10分おきにやっているため、映画館は子供でいっぱい。あまり気が進まなかったが、ピクサー、しかもトイ・ストーリーのナンバリング作品ともなれば観に行かねばならない。
まあ、今回も相変わらず上手い。ウェルメイド。4で子供の支配から外れ自由人となったウッディの使い方も上手い。宣伝を見る限り主役で「なんだ引退してないじゃないか」と思っていたが、ちゃんと主役交代している。主役はジェシーだ。日本の宣伝の仕方が間違っている。ジェシーに失礼。
そしてオモチャからタブレットに子供の興味が移っており、リアルな友達より、画面のなかの友達。チャットに乗り遅れたら仲間外れ。など現代のテーマを見事に反映。伏線を張りつつ最終的にはうまく着地させる脚本の妙は流石としかいいようがない。世界で一番頭のいい人たちが作ってるだけのことはある。
クライマックスのアクションの盛り上がりもいい。いわゆる「映画的アゲアゲ演出」もバッチリ。うーん、全方位的にスキがない。強いていえばスキのなさが欠点か。ウェルメイドすぎるか。これはピクサー作品全般にいえること。もはや負け惜しみ感さえある。
正直子供はウッディやバズたちの動きを観て喜んでいるだろうが、当然これはその親たちに刺さる映画だ。現代の子育てにおいてはタブレットやスマホなどのデジタルデバイスとどう向き合っていくかが重要なテーマ。親はなるたけ与えたくないが、子供のコミュニティにはもはや必須。
このデジタルデバイス問題についてとうの昔に卒業している私からすると、このテーマは20年前くらいからある訳で、ピクサーにしては取り上げるのが遅すぎたくらいではないだろうか。しかもトイ・ストーリーというテーマとの親和性も高い。観終わって思ったのは作られるべくして作られた、という印象か。
まあ、それにしてもウェルメイド印のピクサー作品、さすがにキツくなってきたかもしれない。この歳になると小洒落たお店で美味い料理とお酒を嗜むより、安い大衆酒場でもつ焼きやホッピーを嗜むほうに価値がある、と思うようになってきたのに近いか。あれ、大衆酒場は昔から好きか。違うかも。
"5"でも泣くなんて…
まさかこの"5"でも泣くとは思わなかった……
"3"も感動的だったけど、こちらも"3"に負けず劣らず感動的だった。オモチャ自身がオモチャの役目を理解しそれを昇華するなんて、なんて素敵な作品なんだ‼︎
気の合う友達を結び付けてくれるなんて、まるでエンジェルじゃないか‼︎
人と人の出逢いって、その時その時の偶然やほんの僅かなチャンスにある…。。
ほんのちょっとの勇気とほんのちょっとの時間の交差によって生まれるのだ‼︎
そして掛け替えのない友に巡り逢えるのだ。
ジェシーは大きくなる子供達の事も理解し、嫉妬や飽きられてしまった絶望を経験しても見事に成長出来た。
オモチャが成長したのに… では我々は⁉︎
そうこの映画は出来ないなんて言わせないのだ!
ほんのちょっとの勇気さえあれば…
【追記】
ボニーは人見知りで恥ずかしがり屋でとってもシャイな子、でもそれら以上に創造力があり物語りが大好きな子。それはとってもとっても大事な個性なのだ。以前のアメリカならそれは変わった子と思われていたがこの物語りを観るとその変化もみてとれる。大多数が正しいとは限らないのだ…。。 そぅ、個性をもっと大事にして良いのだ‼︎
全105件中、1~20件目を表示










