遠い山なみの光のレビュー・感想・評価
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美しさの中にある暗闇が見事な作品
あまりにも自分の好みすぎる要素が多すぎてびっくりした。
正直、作品の内容的には人を選びそう。
エンタメ性が高く、わかりやすい内容の映画が好きな人にとっては、よくわからずつまらないという感想をもってしまう可能性も高い。
しかし、この手の映画が好きな人には、かなりブッ刺さる作品だった。賛否両論あるのも納得。
私はめちゃくちゃブッ刺さってしまって、鑑賞後思わず「おもしろかったー」と声に出して呟いてしまったぐらいだ。
この作品は余白が多く、全てを語らずこちらに解釈を委ねるシーンが多い。
常に付きまとう不穏な空気と、どこか、何かがおかしいという不気味さがずっとスクリーン上にある。
真実はなんだ? これは本当の話なのか?
ずっと落ち着きなくソワソワした気持ちで見ているのに、魅力的で、美しくて、ずっと見ていたいと思わせられる。
これはとても不思議な感覚だった。そしてそう思わせてくれたのは、広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊という3人の女優の演技があまりにも素晴らしかったからだ。
戦後の長崎パートの広瀬すずと二階堂ふみは、当時の服装や長崎の方言、話し方や言葉選びなど、何もかもが品があり文学的で美しく、何度も見惚れてしまった。
現代のイギリスパートの吉田羊は、全て英語のセリフだったにも関わらず、難しい役を見事に演じ切っていた。
今年は主演男優の良作が多かっただけに、女優3人が光る良作に出会えて嬉しい。
戦後の長崎という時代背景から、被爆者に対しての偏見など、当時の女性たちの心情や環境に思いを馳せると、彼女の決断や行動は決して責められない。
全ての真実が分かった時、あーあのシーンはこういうことを表していたのか、とか、きっとこれはこういうことを伝えたかったのかと答え合わせしていけばいくほど、作品の理解が深まりじわじわと感動が自分に広がる作品だった。
分かろうとすることではなく、感じることが大切な映画
戦禍の長崎に生きた女性たちの姿を描くヒューマンミステリー。ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの長編デビュー作を原作に、日本・イギリス・ポーランドの合作で映画化されている。二階堂ふみ、広瀬すずの熱演が光り、彼女たちが抱えた傷や葛藤がスクリーンから強く伝わってくる。
鑑賞後の感覚は、正直スッキリとはしない。まるで遠い山なみの光のように、見る角度やタイミングによって光にも闇にも見える映画だ。はっきりした輪郭ではなく、かげろうのような影を伴った「生」の姿—生きているようで、生きていないような、覚えているようで覚えていないような—が当時の社会を生きる人々の姿に重なる。
この映画の価値は、「分かろうとしなくて良い、感じることが大切」という点にある。当時の人々が必死で生き抜いた事実を胸に、スクリーンから受け取るメッセージを自分なりに噛み砕き、心に落とし込むことができれば、鑑賞の意義は十分だろう。
戦後80年を経た今、当時の社会を生き抜いた人たちの存在に思いを馳せ、今を生きる私たちがここにいる意味を改めて考えさせられる。
【鑑賞ポイント】
・ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの原作(長崎が舞台)
・二階堂ふみ、広瀬すずの熱演に注目🤫
・戦後80年の今、歴史と命の尊さに向き合う作品
重なり合う女たち、すれ違う男たち
改めて、原作を読み返したくなった。うすめの文庫本で、それほどの分量はないものの、意外にたくさんの主要人物が登場し、多層的に絡み合う。行きつ戻りつ読み返しても、さらりと飲みこむには少々手ごわく、断片的な印象を拾っては味わうことに留まってしまった記憶がある。今回映画版に触れ、なるほどと腑に落ちるところがたくさんあった。さらには、別の物語の可能性さえも伸びやかに広がり、とても贅沢な体験ができた。
主人公・悦子の丁寧な所作に、まずは心を奪われる。はたきで部屋の埃を払い、シャツにアイロンをかけ、手早くオムレツを焼く。つましくも丁寧に日々の暮らしを営み、被曝や戦争を乗り越えようとしている彼女の視線の先に、不穏な異物がある。なぜか彼女はそこから目を離せず、どんどんと深入りしていってしまう。はじめは危うさを感じた私たち(観客)もまた、いつしか彼女たちの関係に惹かれ、その先にある「何か」を、息を詰めて待ち受けてしまうのだ。
悦子と佐智子の関係はもちろんだが、悦子の夫と義父である元教師・誠二のすれ違い、そして誠二と彼の教え子である松田のぶつかり合いも印象的だった。時代に翻弄され、居場所を失っていく誠二のような人が、あの頃どれだけたくさんいたのだろう。時代のせいと片付けるには、人ひとりの人生はあまりにも重く、長い。
終盤、本作は彼女たちの重なりを示唆し、パラレルな物語を紐解く。描き割りのようで少し違和感があった風景が、人物と同化し、説得力を増していく。さらに私は、実は彼らは皆死んでいるのではないか、もしくは、死者と生者が入り混じっているのではないかという気さえした。明るく生気あふれる1940年代に比して、薄暗く陰鬱ささえ漂う1980年代は、特に前半、生の気配がない。けれども、ラストで示されるあらたな命の予感が、彼女たちや物語に、あたたかな光を注ぐ。あの遠い山なみの向こうには、イギリスの深い森が広がっているかもしれない。そんな奥行きと時間軸のクロスも、本作の愉しみだと感じた。
遠ざかる記憶と消えない後悔
原作小説ではラストの種明かしや、映画と同じ表現での伏線はない。
ただ終盤にひとつだけ、それまで語られた悦子の物語の信憑性を疑わせる彼女の短い台詞があり、そこで初めて「万里子のエピソードは景子のものなのでは?」というもやっとした疑念が湧く(読解力がある人はもっと早くそう思うのかも)。だが、それに対する答えはない。
そういった表現は読者の想像力を刺激するが、時にわかりづらくもある。
本作の場合は謎の伏線と答えを明示することが、小説を映画に変換するにあたっては必要な演出だったように思う。
物語における佐知子が実は悦子自身のことであったなら、広瀬すずが演じた52年の悦子はどういう存在なのか。以下は完全に私の個人的な推測だが、彼女も全くの虚像ではなく、悦子の内面の一部である気がする。
81年の悦子(以下「現在の悦子」とする)は記憶の断片を時系列ごとシャッフルし、52年の悦子と佐知子という2人の人物像に組み直して語っているのではないだろうか。
蜘蛛を口に入れようとする万里子、イギリスの家の壁を這う蜘蛛。過去の悦子の足に絡みつくロープ、イギリスで縊死した景子。そういった描写にシャッフルの形跡を感じた。
実際の悦子の人生は、次のようではなかったか。
二郎と結婚し、それに伴い仕事を辞めた(教師と言っていた気がするが、英語の教師だったのかもしれない)。
景子を産んだが、男性に従属する当時の日本では一般的な女性の生き方に嫌気がさし、何らかのきっかけで娘を連れて家を出て、イギリス人男性と知り合った(序盤、ロープウェイの看板の前で案内嬢のような格好をして米兵と向き合う悦子(演・広瀬すず)のモノクロ写真が一瞬映る。英語を使った仕事をすれば海外の男性とも知り合えるだろう)。
彼女は嫌がる景子を連れて渡英したが、景子は現地に馴染めず自死してしまう。
では、悦子は何故過去についてそのような語り方をしたのかといえばひとつにはやはり、罪悪感なのだと思う。
「この暗い回想の底には、自分のアイデンティティを守ろうとした選択が景子を犠牲にしたという悦子の自責の念が一貫して流れている。」原作の訳者あとがきにある小野寺健氏のこの言葉の通りなのだろう。
ニキは最後に「母さんは悪くない」と悦子を慰めたが、個人的には景子がかわいそうだ、彼女への接し方だけはもう少しどうにかならなかったのかと思ってしまった。
猫殺しはさすがにちょっと……あの箱をイギリスに持ってきていたから猫水没も作り話かも(であってほしい)と思ったが、川を箱が流れる悪夢を見ていたから多分事実なのだろう。
もうひとつは、悦子の中で30年前の記憶が曖昧になりつつあることの表れではないだろうか。
「こういう記憶もいずれはあいまいになって、いま思い出せることは事実と違っていたということになる時が来るかもしれない。」小説の悦子の語りには、このような言葉が数回出てくる。
必死で生きていた当時の感情は忘れがたくとも、細部は曖昧になってゆく。現在の悦子にとって、過去の風景はまさに本作の原題「A Pale View of Hills」、遠くに霞んで見える丘陵のような眺めになりつつあったのだろう。
罪悪感と細部の忘却、それらを抱えた悦子がニキに過去を語る時、最終的に景子を追い込むことになった(と悦子自身が認識している)自身の性質や行動については佐知子という「自分ではない第三者」のこととして語った。自分の過去として語るには、いまだに自責の念に耐えられないということか。
そして、当時の出来事のように装いながら、実はその後の人生で感じた悔いを物語の中で晴らしていたのではないだろうか。
過去の中の悦子は、万里子に優しかった。それはその後景子を失った悦子の、あの時こうしてあげればよかった、という後悔が生んだ想像のように思えてならない。
電車の車窓の向こうに佇んで過去の悦子たちを見つめる現在の悦子、その視線を佐知子も感知していたという場面はファンタジックだが、これも彼女の後悔を表すイメージなのかもしれない。
悦子が渡英を決意する一因になったと思われる結婚生活だが、昭和の男の(女性から見て)駄目な部分が笑ってしまうほど見事に二郎に集約されていた。妊婦の横で煙草を吸うわ、予告なく職場の人間を家に連れ込むわ。そりゃ悦子も渡英したくなるわ、と思わされるという意味ではよくできた人物造形だ。
緒方と、息子の二郎や元教え子の重夫との価値観の衝突も興味深かった。緒方はおそらく戦時中には教師として愛国心を大いに煽ったのだろう。万歳三唱で息子を戦地に送り出すが、年齢的に自分は出征しない。
対して二郎や重夫はその教えを信じ、戦地に行かされた世代だ。敗戦で時代の空気が変われば軋轢が生じるのは当然のこと。重夫は緒方に悪意がないことは理解しつつも、その無責任さが許せなかったのだろう。渡辺大知の演技が、出演時間は短いのに印象的だ。
時の流れでうつろう記憶と残り続ける感情、変わってゆく価値観と変化に取り残される哀しさ、そういったことを考えさせられ、あの表現はこういうことかも、という想像も膨らむ良作だった。
主演スターとしての広瀬すずの得難い貫禄と名演技
スクリーン上での広瀬すずの映り方がほとんど黄金時代のの映画スターと遜色がなく、演技者としても堂々としたみごとなもので、死語になりつつある「映画女優」という存在が復活したかのような凄味があった。ただし、おそらく曖昧さを味わうような原作の持ち味が、映画になったことでテーマなのかモチーフの意味みたいなものがより明確になってしまい、結果どっちつかずになってしまったのではないか、という気はした。最後がミステリー的な種明かしに見えることも、果たして映画に取ってプラスであったかどうかは判断ができない。が、松下洸平の無自覚なクソ夫っぷりや、三浦友和演じる義父の過去の遺物感など、ゾワゾワさせてくれる表現があちこちにあって目を惹かれる。イギリスでのシーンでは、母と娘のやり取りなどで急にセリフがベタでつまらなくなるのは気になりました。
今年を代表する1本
人間は意図せず嘘をつく生き物だということを大変に力強い説得力を持って描いた作品だ。だましているつもりもない、しかし、架空の誰かに自分の思いを仮託せねば語れない苦しい過去がある時、自分でもなぜか設定を作ってしまう。本作で語られる物語は、そういう類のものだ。ポストトゥルースの時代にふさわしい作品と言える。
日本、イギリス、ポーランドの国際共同製作で作られた本作は、日本の50年代を舞台にしつつ、日本映画らしさの他にも様々な要素が含まれている、これまでにない雰囲気をまとった作品に仕上がっている。ルックの見事さは石川慶作品として相変わらずだし、セットの完成度も高い。そして、役者たちの芝居は素晴らしい。その役者を見つめる石川監督独特の不穏さもあいまって、心理ミステリーとしての完成度が非常に高い。
今年はクオリティの高い日本映画が多いが、これはその中でも今年を代表する1本と言っていいと思う。
記憶とは何かについて深く考えさせられる
記憶とは何だろうか。初老の女性の述懐がベースとなる物語だが、彼女が語るのは何十年も前の昔話であり、なおかつ場所も日本と英国とで随分と遠い。遠い山並みの光とはまるで、そうやって時間と空間を隔てたところから望む、おぼろげな追想の日々のよう。冒頭、長崎の劇的な復興を記録した写真が、まさかの楽曲に乗せて勢いよく駆け抜ける。この新鮮な風を感じつつ、ネオンや看板が放つ鮮やかな色彩に満ちた街並みにも心奪われるひととき。あらゆるものが変容する。そういった過程の中に浮かび上がる「二人の女性」は一体何を意味するのか。かくも記憶という題材は、長崎生まれで英国暮らしの長いイシグロ氏にとって、常に、そしていつまでもリアリティを放ち続けるものに違いない。私には小説と映画とではやや印象が違って見えたが、その印象の違いもまた本作の狙いのような気がする。女優たちの研ぎ澄まされた表現力、石川監督の人間描写が際立つ一作である。
記憶こそが“信頼できない語り手”
物語の叙述手法の一類型を指す“信頼できない語り手”という用語は、米評論家によって1960年代に提唱され、文学の研究者やマニアを中心に徐々に認知されていったと思われるが、この用語をより広い層へ浸透させるのに一役買ったのがカズオ・イシグロ原作の英映画「日の名残り」(1993)。イシグロは1982年の長編小説デビュー作「A Pale View of Hills」ですでに“信頼できない語り手”を用いており、訳書の邦題にあわせた今回の映画化作品「遠い山なみの光」でも、ミステリー要素に貢献するこの手法の妙味が効いている。
映画の序盤、英国郊外で暮らす悦子(吉田羊)は作家志望の次女ニキから、長崎で第二次世界大戦期から1950年代まで過ごした頃の思い出を聞かせてと頼まれる。気が乗らない悦子だったが、深夜に「長崎にいた頃に知り合った女性とその幼い娘のことを夢に見ていた」と語り出す。悦子によるこの前置きが、回想パートをめぐる謎の重要なヒントになる。
夢には過去の実体験の断片が現れることも多いが、事実が奇妙に歪められていたり、非現実的な要素が紛れ込むこともある。悦子の長崎時代の記憶は、30年もの時を経て曖昧になっている部分も当然あるだろう。さらに悦子は渡英後に長女を自死で失うというつらい経験もした。そうした諸々の状況から、悦子がニキに(そして映画の観客に)語る回想には、理想や願望、後悔や現実逃避といった複雑な精神状態が図らずも影響を与えている可能性があることを、夢というワードでほのめかしたと解釈できる。
石川慶監督はあるインタビューでネタバレを避けつつ、長崎時代の悦子(広瀬すず)と佐知子(二階堂ふみ)という2人のキャラクターを理想の女性像の多面性を表すもの、つまり異なる視点から見た別々の面を表すものと言える、といった趣旨のコメントをしていた。回想パートに理想や憧憬が込められているとすれば、長崎の景観が不自然なほど彩度の高い映像で描写されたシーンが多いのも納得がいく。
石川監督は平野啓一郎の小説を映画化した「ある男」でも、ストーリーの中で語られるキャラクターとアイデンティティーの関係を追求していた。同作と「遠い山なみの光」のテーマが深いところで呼応している印象を受けるのも感慨深い。また、長崎への原爆投下と敗戦後の日本を扱った映画でありながら反戦を前面に出さなかった点は、日本・イギリス・ポーランド合作として妥当な判断であり、分断が深刻化する今の時代に国際市場で売り込む戦略的な狙いもあるはず。国や組織の大きな歴史ではなく、個人の生き方や他者との関わり方に重点を置く物語だからこそ、さまざまな壁を越えて伝わるものがきっとあると信じたい。
登場する女性たちの関係性や時代背景が複雑にからまり、物語は決して分...
見え隠れする戦争(被爆)の影
本作の冒頭で語られるように、当時の長崎は、その受けた戦災の大きさにもかかわらず「それまでになかったくらいに、活気と希望に溢れていた」とは言いながら、日常のほんのちょっとした出来事の陰に被爆の影が見え隠れする―。
やはり、それが、悦子(と佐知子)らが過ごしていた終戦直後(1950年・昭和25年)頃の長崎の実状だったようです。
そういう意味では、本作の題名の「山なみのの光」は、山なみの間から漏れてくる希望の光ではなく、別の「閃光」―それは悦子(や佐知子)を始めとした、当時の長崎の人々の平穏な生活を狂わせた「光」の意味なのかも知れないと、評論子は思いました。
被爆地・長崎を遠く離れ、また1980年代に至るなど、地理的・時間的に遥(はる)かな隔たりを経ても、悦子ら当時の人々の心の底には戦争(被爆)の影が忌まわしくついて回る―その真実を描き切った一本としては、充分に佳作としての評価に値する一本だったとも、評論子は思います。
(追記)
わが子を掘割の水に浸す女―いわば「究極の選択」として、被爆によって瀕死の重症を負い、しかしまだ息のあった自分の赤ん坊を、その苦しむ姿に耐えかねて堀割の水面に漬けて溺死させたものでしょうか。すでに息を引き取ってはいるものの、わが子へのせめてもの餞(はなむけ)として、その体に付着する「死の灰」を洗い流すために掘割の水面に浸けたものでしょうか。
本作は、その点を明確には描いていなかったと、評論子は、記憶しますが。
しかし、後に、母親が、喉を掻き切って自死したということは、真実は前者ではなかったかと、評論子は推察します(ただ、わが子のいなくなった現実から、生きる意味を見失って自死という結末を自ら選び取ったのかも知れませんけれども。)
いずれにしても、そのような、正に「生き地獄」のような様(さま)を、目の当たりにしては、件(くだん)の母親は、なるほど、正気を保つのは難しかったのかも知れません。
そして、そのエピソードが「喪服のような黒い服装の女」として、ことあるごとに悦子の記憶によみがえって、彼女を苦しめる―。
それは、音楽科の臨時教員として地元の小学校の教壇に立っていたおりに、教え子を戦災から救うことができなかった悦子のトラウマの、いわばフラッシュバックだったのかも知れません。
当時の長崎に住まっていた以上、景子の反対を押しきって渡英を強行した悦子にも、佐知子(=悦子)が目撃した母親のエピソードに勝るとも劣らない「地獄絵」を目の当たりにして来たであろうことは、想像に難くありません。
「戦争に負けたのではい。(非人道的な殺戮兵器である)原爆に負けたんだ。」という緒方の強弁とは裏腹に、やはり、戦争の悲惨さ、不条理さは、こんなところにも顔を出し、しかも深刻なものであることに、改めて思いも至ります。
最近原作を読んで評価が上がった
公開当時に劇場で観ました。観た直後の感想は、何となく消化不良、何これ?でした。
映画のルックは綺麗で団地のシーンは小津っぽいというか成瀬巳喜男っぽい感じを出したいのか、最後のミステリー的な仕掛けはうーん、、、という感じだったけど、最近原作の小説を初めて読んで結構大胆な脚色がされてることに驚き、映画としてドラマチックに構成し直したんだなと評価が上がりました。
面白い構成の作品だと思ったのですが‥
(完全ネタバレなので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
結論から言うと、今作の映画『遠い山なみの光』は、個人的には面白い構成の作品だと思われながら、同時に疑問の個所も大きい作品だと思われました。
(細かい私的点数は3.3点です。)
作品構成の面は、1950年代の長崎の、主人公・緒方悦子(広瀬すずさん)と佐知子(二階堂ふみさん)との関係が、広瀬すずさんと二階堂ふみさんとのさすがの深い演技表現もあり、ミステリアスに深く描かれている面白さがあったと思われました。
また、1980年代のイギリスを舞台にした、悦子(吉田羊さん)と娘・ニキ(カミラ・アイコさん)との母娘関係が、1950年代の長崎の過去と絡まりながら、深く描かれて行くのも良かったと思われます。
ただ、個人的には今作の良さを台無しにしてしまっている描写が以下にあったようにも思われました。
それは、1950年代の長崎の、主人公・緒方悦子の夫・緒方二郎(松下洸平さん)の父・緒方誠二(三浦友和さん)に対する振舞い方にあったと思われます。
(主人公・緒方悦子の夫・緒方二郎の父である)緒方誠二は、戦争中に教師をしていて、戦時中なので生徒に軍国教育を行っていました。
そして、戦後の1950年代に、緒方誠二は、自身の戦時中の軍国教育について、かつての教え子で教師になった松田重夫(渡辺大知さん)から雑誌の文章や、直接、厳しい批判の言葉を浴びせられます。
そして緒方誠二は、彼の息子で主人公・緒方悦子の夫・緒方二郎からも、出征の時の振る舞いを厳しく批判されます。
しかし個人的には、この緒方誠二に対する、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎からの一方的な批判は、ちょっとおかしいのではないか?とは思われました。
なぜなら、1950年代は1945年の終戦後まもなくで、戦時中と戦後の価値観を、2重に両方体感し理解している人々が大半の時代であり、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎もその2重の価値観を生きた人物であるはずだからです。
戦時中の大半の日本人は、完全に日本政府に強制され全くの自らの意思に反して銃後を含めて戦争に参加していた【訳ではありません】。
もちろん当時の日本政府の国民への広報はデタラメだらけだったと後に分かるのですが、戦時中のその時は、教師で軍国教育をしていた緒方誠二だけでなく、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎も、その周りの同世代も、ほとんど疑問なく、国のために自身の家族を守るために、(戦後から振り返れば誤りだらけだったとしても)それぞれの正義として、戦争に足を踏み入れて行ったと思われるのです。
つまり、戦時中の戦争の責任は、国や家族の為と内側から自ら踏み入れた、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎やその同世代自身にもあったと思われるのです。
なので、緒方誠二を責め立てる、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎は、(戦争責任を問うなら)まず自身を棚に上げず自らへの問い掛けが必要だと思われるのです。
その上で、デタラメだった当時の日本政府や、軍国教育を行った教育機関への批判の順番が必要で、その順番を踏めば、とてもあのような自らを棚に上げた自身は正義の側に100%立った一方的な批判など出来ようはずがないと、私には思われたのです。
個人的には、自らの問題を引き受けず100%他責に振る舞う、かつての教え子・松田重夫や息子・緒方二郎を見て、今作を根底からダメにしている、人間の矛盾から目を逸らせた人間観と表現であると、僭越思わざるを得ませんでした。
よって、個人的には僭越、今回の点数となりました。
ただ、仮にかつての教え子・松田重夫も息子・緒方二郎も、自らの責任を引き受けながら、同時に複雑な含みある緒方誠二への批判の描写になっていれば、主人公・緒方悦子と佐知子のミステリアスな関係の構成、イギリスでの悦子と娘の複雑な深い関係の描写など、秀作傑作にもなり得た作品とも一方では思われ、惜し過ぎる教え子・松田重夫と息子・緒方二郎との人物描写だったと、僭越思われました。
夕暮れに静かに観る
時代を丁寧に切り取った作品
映画館でも鑑賞済みですが、残しておきたい映画だったので、この度Blu-rayを購入しました。
この原作は読んでないのですが、映画はそのストーリーを壊さずに撮られているのだろうと思いました。カズオイシグロの小説の持つ共通した乾いていて、でも深い空気感の演出が秀逸だったからです。物語は過去の出来事を掘ったものですが、人の人生は良くも悪くもドラマチックで重いものだと、あらためて感じられた作品です。
二階堂ふみさんが薄幸の美女を演じられていて、映画ガマの油の時の女子高生のイメージをずっと持っていただけに、えっ、この女優さんは誰?としばらく目を凝らして見るほど、女優としての成長著しかったです。とても素晴らしい演技でした。
真偽
遠い山なみの光
対照的な異なる二つの色彩・照明の映画である。一方は終戦から歳月が経ち、今や復興めざましい長崎の活気ある風景。明るい陽の光が降り注ぎ、影の無い世界。市電が走り、街の映画館には、ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り('50米=パラマウント)」や小津安二郎監督の「お茶漬けの味('52=松竹)」の看板が掲げられていることから、1952年が舞台であることが分かる。初夏を感じさせる華やかな色彩、暖色系が溢れている。
他方は、現在(1980年代初頭)のイギリス。雨が止まず薄暗い午後、或いは闇に包まれたような寒色系の色彩と影が大半である。
これら異なった色彩・照明のシーンが交互に登場することによって、現在と過去を描き分けている。
主人公の悦子(広瀬すず)が住む団地の風景からは、既に戦後の時代は終わり、早くも高度経済成長の時代を目前に控えているような、そういった意味では、1950年代半ばから後半頃に見えなくもない。
悦子が住む団地3階のベランダからの眺めがいい。細い川が手前から奥に向かって流れており、視界後方に流れる本流に合流している。川には橋が架かっていて画面の左右に配置されている。何気なく外を眺めていた悦子がこの橋の奥に見える河原の草むらの中にある廃墟に見えなくもない一軒のあばら家に佇む女性の佐知子(二階堂ふみ)を発見する。そして彼女が待ち侘びていた米兵を迎え入れる情景を目にする。この台詞なしで、悦子の表情と彼女の視線から描かれたショットのみで構成されているシーンが映画的で素晴らしい。
悦子と佐知子、共に戦後復興の新時代を積極的に活きる女性に見え、美しく輝いている。但し、住む世界が余りにも異なる二人がふとしたことから出会い、共に行動し始めるや否や、違和感や不安感を覚えずにはいられなくなる。
何時になったらアメリカに移住出来るのか?一人娘の万里子(鈴木碧桜)の行動にも手を焼く佐知子。それとは対照的に一見何の苦労もなさそうに見える悦子にも、原爆投下時の放射能による身籠った子供への悪影響への恐れ、被爆者に対する何気ない差別を露わにした夫の二郎(松下洸平)との心のすれ違いと言った問題があることが分かる。また、夫と義父(三浦友和)とのギクシャクした関係、元校長のこの義父と現役教師(渡辺大知)との衝突等も描かれ、外見的な華やかさ、物理的な戦後復興とは異なり、誰もが傷を負い、戸惑い、不安や怒りに苛まれていたのだということが明らかになってくる。そして、明るい陽光の長崎が、次第に夕闇や夜間のシーンに覆われていくのと同時に、それまで見えなかった真実が明らかになり、1952年の長崎が1980年代初頭のイギリスへと繋がっていく。現在の悦子(吉田羊)が娘ニキ(カミラ・アイコ)に語る自身の過去が、意識的または無意識的に事実を捻じ曲げてしまっている為、何処までが真実で何処までが虚構なのかが不明瞭であり、すべては朧気な記憶に頼らざるを得ないと言ったところである。観る側の想像力を最大限に掻き立てられるのと同時に、様々な断片を繋ぎ合わせ、個々の観客が自分なりの答え探しをしなければならないし、またそうしたくなるような、非常に考えさせられる映画である。
広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、圧巻の演技 戦後を背景にしたヒューマンミステリーが面白い
あまりに印象的な映画のレビューはなかなかかけず、かなり時間がかかってしまう。
本作もその1本。
作家志望の娘ニキは、イギリスで一人暮らす母・悦子から、戦後長崎での出来事と佐知子という女性の話を聞くというヒューマンミステリー。
1950年代の長崎に暮らす主人公・悦子を広瀬すず、悦子が出会った謎多き女性・佐知子を二階堂ふみ、1980年代のイギリスで暮らす悦子を吉田羊がそれぞれ演じていて、とにかく彼女ら女優陣の演技が素晴らしかった。
母が語る話には、出産前の彼女と、被爆差別のせいで離婚後の彼女の姿が、二人の別の女性として語られていたのではないかという結末が面白い。
ただおとなしく純真だった悦子が虐げられながらも強く生きて、佐知子に代わっていったのだ。
その中でも、猫を捨てないで、川に沈めてしまうシーンの恐ろしさが圧巻で、印象に残る。
全442件中、1~20件目を表示











